冬空の下

第三章 少女の学校








 二つの弁当箱が居間の食卓の上に置いてある。
 時間は士郎と桜が仕事に出掛ける十分前、志貴と士郎、桜とライダーは其れを囲んで座っている。視線は可愛らしい白色の箱と勇ましい虎柄の箱だ。弁当箱は空ではなく、士郎と桜の手製の弁当料理が詰まっている。学園へ通うイリヤと大河の昼食である。

 珍しいなと士郎は云った。

「藤ねぇならよくあるけど、イリヤが弁当を忘れてくなんて」

「そうですね。イリヤちゃんはしっかりしていますから、忘れ物をすることはなかったけれど、こういうこともあるものなんですね」

 桜は、ライダーの髪をシニョンに結い上げながら言った。長い髪を纏めるのは大変なのだが、既に趣味の域になってしまったので、面倒とは思わない。
 ライダーはされるがままに、ちょこんと座っている。

 居間を通れば、まず忘れられないだろう位置に置いてある、食卓の上の弁当箱は、主に持っていかれる事なく、ぽつんと置いてあった。大河はよく忘れて行く事はあったが、大河が忘れていった弁当箱は、イリヤが登校時に持って行って、飢えた虎が暴れる事はなかったのだが、今回はイリヤも忘れて行ったのである。朝食を食べた後、衛宮邸の私室から居間を通らずに学園へ行ったのなら、忘れて行く事も無きにしもあらずか。其れにしても、イリヤが忘れ物なんて本当に珍しい。

 そのようですねとライダーは云った。

「ところで、イリヤは学食があるそうですから問題ないでしょうが、桜が云っていた、タイガの、士郎の弁当を食べられなかったときの落ち込みようは、酷い有様だったらしいのではないですか」

「藤村先生は、学食でも出前でも、何かを食べれば落ち着くけれど、妙に不安定になったりならなかったりしていましたね。部活は普段よりも厳しい練習になってました」

「――む」

 桜の言葉を聞いて、士郎は腕を組んで弁当箱を見た。

 大河は、士郎手製の大河への弁当が食べられる事なく、朽ちるか誰かに食べられてしまう事を歯痒く思うが故に、暴れるのだと桜は思う。桜は、よく部活で弁当を大河に分けていたものだと思い出した。

「私が車で送るといえども、弁当箱を持って学園に寄って【ワール・ウィンド】へ行くとしたら、桜と士郎は遅刻してしまい――痛ッ、痛いです、サクラ」

「あっ、ごめんなさい、ライダー。でも、急に動いたら駄目でしょう」

 ライダーは髪を押さえて、後ろの桜を眼鏡越しに上目遣いで睨んだ。けれど。
 桜は、一旦謝った後に、めっと指を立てて叱った。

 志貴と士郎は、ライダーには悪いけれど、桜に叱られる光景を見て、可笑しくて母娘の様に感じられ、和やかな気分になった。
 ライダーは、壁に掛けてある時計へ視軸を移し、時間を確認しようとした処、桜はライダーが急に動いた為に手元が滑って、さくとブラシが刺さってしまったのである。

 ライダーが確認した時間は、二人を仕事に送る五分前だった。其れに今日は、ライダーは遠出の予定がある為に、送り迎えの帰りに弁当箱を届ける事は出来ない。身近な物は深山町で大概の物は新都で買えるが、冬木市で買える物は限られている。山と海に囲まれている冬木市で買えなければ、山超えして買い出しに行かなければならないのだ。

 【ワール・ウィンド】に勤める士郎と桜は、仕事が忙しいので未だに運転免許を取得しておらず、ライダーは学園へ通わず仕事をしていなくて、時間を持て余していたから取得したのである。購入した『衛宮家』の車はFIAT500。全長2970mm全幅1320mmという小型車であり、ルパン三世『カリオストロの城』で有名なイタリアの国民車である。ライダーは、余りの可愛さの為に其の小さな車の購入を決意した。士郎と桜に初めてねだって買ってもらった物である。手間が掛かる車だけれども、嬉嬉として世話をしている。

「遅刻をしても、店長さんは笑って許してくれそうですけど、逆にその優しさが迷惑をかけたら悪いと思わせるんですよね」

 士郎さん、どうしますかと桜は云った。
 桜は、士郎が桜へプロポーズした日より、先輩から士郎さんへと呼称が変わった。大河への呼称が藤村先生のままなのは、幾ら年を重ねても先生は先生だったのだし、大河は自分を藤村先生と呼んでくれる人が、家でも学園でも少数なので、変更を余り望んでいなかったからである。

 桜はライダーの髪を結い終え、後は少し調整するのみだ。髪の跳ね具合をアレンジし、出掛ける時間に間に合った。
 ありがとうございますサクラ、とライダーは云った。
 桜は微笑みで返事をした。

「――むむむ」

 士郎の唸り声は、桜とライダーの発言につれて長くなっていく。
 自の弁当が理由で虎が学園で暴れるのは生徒に悪いし、仕事に遅れるのは店長に悪い。

 俺が持って行こうかと志貴は云った。

「志貴?」

 士郎は志貴へ視軸を移した。
 蒼色の和服を着流しで着こなしている志貴は、静観しながら飲んでいたお茶が空になったので、湯呑み茶碗を食卓に置いた。

「俺は一日中暇してるしさ。散歩がてら届けに行くよ」

 そうですかとライダーは応えた。

「シキには留守番を頼もうと思っていたのですが、散歩に出掛けるならば家に鍵を掛けなければなりません。しかし、志貴の分の合鍵はありませんよ」

「けれど志貴さんならば、塀を飛び越えられるんじゃないですか。窓の鍵を一カ所だけ開けて出掛けて下さいね。それなら大丈夫でしょう。それと散歩をするなら、弁当箱を届けるついでに、学校を見学でもしてきたらどうですか。良い暇潰しになると思いますよ。藤村先生がいるので、志貴さんの身元を保証できますから、見学ぐらいなら他の先生たちも何とかなるでしょう」

 和服は目立ってしまうでしょうけど、と桜は言った。

「まあ目立つのは、和服って珍しいから仕方がないか。けど奇異の目を向けられるとしても、いつもの事だからこのままで行くよ」

 志貴は微笑みを浮かべた。



 過去、志貴という人間を構成するのは、遠野志貴だけではなかった。志貴の中に七夜志貴という少年がいたのだ。志貴の平穏が三咲町で終わってから5年が過ぎた。アルクェイドが【千年城】へ戻ってから5年が過ぎた。自の中に、自分ではない自分がいるのに気付いたのは、其の間の事だった。

 遠野志貴は、度重なる戦闘を生き抜くのに、七夜志貴を喰らって生きた。
 志貴は、何故七夜が志貴を主体にして人格を統合したのか知らない。解らない。ただ、自分だけでは今までに死んでいた可能性が高かったと、志貴は思う。生き抜けたのは、七夜志貴という少年のおかげだ。

 聖杯戦争後、志貴は知り合いの人形師である蒼崎橙子に、英霊の腕を対価として、ヒトガタを2体造って貰った事があった。
 そして、橙子の『此方側』の仕事を手伝う人物に、両儀式という女性がいる。式の口調は、使う人は女性よりも男性の方が多い口調をしていた。式は、陽性の識と陰性の式という二重人格のような状態だったが、ある事故で式の代わりに識は死んだのである。式は、識が生きていたのを、識を知る幹也に覚えて貰っていたいが為に、男性よりの口調を使うのだろうと、志貴は橙子から聞いた。

 志貴も同じだ。

 遠野志貴は七夜志貴が生きていた証として、和装の装束を纏う。七夜の血族が生きていた証ではない。七夜志貴という半身が生きていたのを形として示す為に、時代錯誤な服装をする。
 故に、奇異な視線を向けられたとしても、志貴は和服を纏うのだ。



 大丈夫じゃないかと士郎は云った。

「志貴が冬木に来て二週間以上経って、よく散歩してるからか。商店街には、和服で眼鏡の人がいると有名になってたから、学校に行ったとしても受け入れられると思うんだが」

「たしかに、買い物をシキに付き合っていただいた時に、商店街の皆さんと随分と親しそうでした。あの分では、学園の生徒にもシキを知っている者はいるでしょう。目立ちはするでしょうが、追い出されることはないと思います」

「じゃあ渡した後に、暇潰しに見学でもしてくるよ」

 志貴は、食卓の手前の位置に白と虎の弁当箱を寄せて、そう云った。























 抜ける様な蒼空の下、志貴は革張りのトランクケースを手に持って、【穂群原学園】への上り坂を歩いていた。トランクケースには、中身が崩れない様に配置した弁当箱が入っている。学園までの坂には、人は一人もいなかった。時偶、車が通るが、街路樹の下は静けさで満ちている。タイルを編み上げブーツで踏んで歩く。朝の木漏れ日の下の散歩を、志貴は好きだった。



 学園に行くのは今回が初めてではない。【冬木市】に来てから、散歩と称して無許可で入ったことがある。学校という空間が、過去の懐かしい日々を思い起こさせてくれたのだ。思い出といっても、同級生では莫迦をやっていた有彦と、忘れてはいけない、ピンチの時に助けられなかった少女ぐらいしいない。
 しかし。
 志貴の生活を急激に改変したのは、高校生の時だった。【遠野の屋敷】に戻った日から変わった。秋葉に小言を云われたり、翡翠が毎朝起こしてくれたり、琥珀に薬を盛られたり、シエルとカレーを食べたり、レンと一緒に寝たり、シオンと紅茶を飲んだりした。

 そして何より――。
 ――アルクェイドと会えた。

 美しくて我侭でお姫様で、けれど世間知らずで無邪気で元気な奴。志貴は、自分の何十倍も生きているのに、楽しい事を全く知らなかったアルクェイドに、其れを教えてやると約束した。一生をかけて教えてやると決めた。

 しかし、たったの数年で其の約束は果たせなくなった。アルクェイドは、吸血衝動を押さえる為に、【千年城】で眠りについたのだ。ロアを殺した後に、アルクェイドは一度【千年城】へ戻ったが、其の時は帰って来てくれた。だが今回は、あの時よりも綺麗な笑顔で別れを告げられた。笑顔なのに、泣くのを我慢している顔だった。

 ――好きだから吸わない。

 志貴はアルクェイドの言葉を反芻した。ロアの件の時に言われた言葉だ。今では、シオンから聞いて、好意が吸血衝動を強めると知っている。アルクェイドは、日々辛くなって行く衝動を、どの様な想いで堪えていたのだろうか。
 まだ、殺した責任をとりきれていない。もっと楽しい事を教えてやる。命尽きるまで共にいたい。――アルクェイド。



 ふと、志貴は視軸を上へ向けた。一台の自転車が坂の上から降りてくる。乗っているのは、女性だ。虎模様のエプロンみたいな服を着ている。大河だ。大河が凄い勢いで走ってくるが、志貴に気付いたのか、ブレーキを掛けた様だ。しかし止まり切れず、志貴の横を数メートル進んで、きぃと止まった。

「こんなところで、どうしたの?」

 大河は振り返って肩越しに尋いた。

「弁当箱のお届です、藤村さん」

 志貴はトランクケースを掲げてみせた。






















 志貴は自転車を漕いでいた。ハンドルを握り締めてサドルに尻を乗せず、ペダルを一漕ぎ一漕ぎする。ペダルが重い為に、立ち漕ぎをしているのだ。
 世間では、和装が完全に着られなくなったという事はないが、其の格好で自転車に乗る者なんてまずいないだろう。

 そして道は平坦ではない。ましてや下り坂でもない。街路樹の下、山の中腹に建てられている為に坂坂がきついと評判の【穂群原学園】までの上り坂だ。此の坂道がある為に、少し離れた位置に家がある生徒も自転車ではなく、徒歩で通っているらしい。
 帰りは下り坂で楽そうだが、残念な事に此の自転車は借り物らしく、きちんと持ち主の生徒に返さないといけないそうだ。

 志貴はぶつくさ云いたくはないのだが、ペダルが重い。荷物が重い。大きすぎて籠からはみ出して斜めに入っているトランクケースは別に良い。ただ女性だから云うのは悪いのだが、後ろの荷台に乗っている大河が、正直重かった。

「頑張れ〜、志貴君。若者らしく必死に漕ぐのだぁ」

 志貴は弾む掛け声を背中から浴びた。
 大河は尻の後ろの荷台の端を後ろ手で掴み、両足をぷらぷらとさせてバランスをとっていた。

 志貴が漕ぐ自転車の速さは、二人乗りを坂道でするという要領の悪い行為なのだが、平坦な道となんら遜色のないものである。が、大河が揺れる度に体勢を立て直すのがきついのか、ハンドルは強く握り締めれていた。

 志貴と大河が初めて会った時は、アルクェイドとシエル、秋葉と一緒だった。志貴は遠野姓が二人いた為に名前で呼ばれる事になったのである。
 ただ大河は秋葉の事を秋葉ちゃんや秋葉さんとは呼ばず、遠野さんと呼んでいる。士郎が大河に理由を聞いた処、秋葉の雰囲気というかオーラみたいな物が、凛と類似していたそうである。凛を遠坂さんと学園で呼んでいたから今もそう呼んでいるそうだが、秋葉の事は雰囲気によって遠野さんと呼称が決まってしまったらしい。

「――なら、脚を揺らさないで下さい。バランスが、崩れる」

「ふっふっふっ、剣道五段のバランス感覚を舐めるなぁ。これでも、士郎よりバランス感はあるわよ」

 士郎は関係ないし。

「――って、云ってる側から脚を振るな、前後に揺するな」

「うぅぅ。そうだね。志貴君は私の為に頑張ってるんだもんね。楽しいんだけど我慢するよぅ」

 志貴は肩を落とした。
 脚をぷらぷらさせたいなんて子供みたいな事を云わないで欲しい。きこきこと自転車のペダルが更に重くなった気がした。
 其れにしても、大河の性格と容姿は何時までも変わらない。性格は相変わらずで、容姿は20歳の頃から変わらないんじゃないのかと士郎は云っていた。

「ええ、頑張りますとも。藤村さんを遅刻させないように頑張って漕ぎますとも」

「見え隠れする言葉の針がいたいよおぅ」

 大河は横を向いてさらりと涙を流した。坂道の為、景色は斜めだった。



 因に大河が自転車で坂道を下って来た理由は、担当の授業が2時限目からだったので、生徒から自転車を借りて弁当箱を【衛宮邸】まで取りに戻ったそうだ。しかし、弁当箱を忘れたという事に気付いたのが、既に一時限目の半分を過ぎた頃だった。しかしあきらめる事は出来ず、気力全開で学校を飛び出した。外で体育をしていた生徒から自転車を借り、坂道を下り始めた。【衛宮邸】までの道程は楽なのだ。ただ、再び学校へ来る時にある上り坂がきつそうだった。
 だが。
 タイガーふるぱわーは伊達ではなく、勇往邁進で坂道を切り崩すつもりだったらしい。けれども坂道の途中で志貴に会って、中途半端な位置で目的の品を手に入れる事になり、燃え盛っていた弁当への狂気は燻ってしまって、感謝と嬉しさだけが残り、坂道を切り崩すぱわーは不意な目的達成の為に不完全燃焼で鎮火してしまった。ふるぱわーが解けた大河は、か弱い乙女みたいな様であるらしいそうで、坂道がきつくて二時限目までに学園へ戻れられない筈だった。

 よって、志貴が妙案があると云い、こんな現状になったのだ。大河は教師として二人乗りは咎めなければいけないのだが、背に肚は変えられず、志貴の言葉に従った。

 結局、大河は上り坂を自転車でもぐんぐんと進められる事に驚き、其の壮快さと坂道の傾斜を楽しんでいた。



 学園が見えてきた。黒い柵の奥に広葉樹がずらりと植えられ、其の奥には芝生が広がっている。そして校舎が見えた。大きな校舎である。流石私立だ。坂道の傾斜は緩くなり、終いには平坦になった。柵が途切れ、右へ曲がって門を潜る。

「着いたぁ、本当に間に合ったわね」

 大河は腕時計を見てからそう云った。
 志貴は、アスファルトもコンクリートも敷いていない赤褐色の地面の上でブレーキを掛けた。自転車は土の上を滑って、自転車置き場の横にきいと止まった。
 大河は荷台からぽんと降りた。

 志貴も自転車から降りて、かこんと止めた。

「はい」

 大河は笑顔で両手を広げて差し出した。
 志貴は首を傾げたが、ああと呟いた。其れから自転車の籠からトランクケースを取り、ぱたんと開けた。勇ましい虎柄の弁当箱を手渡す。

「ありがとう。これでお昼は士郎のお弁当だよ。それと、志貴くんは本当に見学して行くの」

 大河は小首をこてんと傾げた。
 はいと志貴は答えた。

「特にやることがないですから。不審者にならない程度に学校の中をふらつきます。弁当を渡す為に、イリヤちゃんのクラスにも行きますから、彼女に迷惑がかからないように振る舞わないと」

「そうだね。問題は起きななければ良いけど、きっと志貴君なら大丈夫だよ。私が渡しても良いけど、暇潰しの邪魔はしちゃいけないわね。うんうん、私も士郎の家でお煎餅食べてテレビ見るのを邪魔されたくないわ。判った。学校見学の件はちゃんと云っておくから。じゃあ、お弁当ありがとうねぇ」

 大河は腕をぶんぶんと振り乍昇降口へ走って行った。ぱたぱたと走っていたが、昇降口に入る前に一時限目の授業終了チャイムが鳴り、大河の速さはぐんと増した。
 志貴は其の姿に苦笑した。大河は授業の用意等をしなくてはならないのだろう。

 其れから志貴は来賓入口へ行き、事務員に大河の事を話した。しかし確認やら手続きやらで身動き出来ず、次の休み時間まで来賓室で待たされた。大河が呼ばれ、説明して貰い、晴れて志貴の学校見学は始まった。






















 【穂群原学園】には四階建ての校舎と渡り廊下で繋がっている物理室や化学室、コンピュータ室等がある特別棟、二階建ての体育館や弓道場が主にある。
 志貴が居る位置は、職員室や事務室、会議室などが集まっている校舎の一階だ。二、三、四階には生徒たちのクラスがある。

 かこん、と音がした。志貴がトランクケースを床に置いたのだ。ぱたんと開け、上履きとして下駄を取り出す。

 下駄は音が響いたり、走るのには不適切なのだが、平穏な学園では何も起こらないだろう。編み上げブーツは下駄箱へ仕舞ったし、スリッパは今着ている蒼い着流しには合わないと志貴は思ったのである。校内の上履きとしては相応しくないが、志貴が通った学校の教員はスニーカーやサンダル等を上履きに使っていた人がいたから、一応許容範囲だろう。

 漆黒の漆を塗られた黒い下駄。表面には艶があり、鼻緒は赤い。志貴は其れを履き、手首を返して肩にトランクケースを担いだ。背中に堅い革張りの鞄が当たる。此の格好はトランクケースではなくて布や革で造った袋を背負えば、明治時代に合うかもしれない。眼鏡を外せば、江戸時代にも合ってしまう事に、志貴は苦笑した。
 リノウムの床を踏む。足許からは、からころと(あしおと)が響いた。――此の音は授業に迷惑を掛けてしまうかもしれない。



 志貴は二階へ上がった。イリヤの教室は此の階にあると大河から聞いていた。廊下には休み時間だから多くの生徒がいた。生徒の一人が志貴に気付いて眼を見開き、横にいる友達に話題を振った。
 廊下を歩くと下駄が鳴り、廊下を歩くと生徒たちの視線が集まり、廊下を歩くと雑談の話題にされてしまった。

 志貴はトランクケースを担いでいるのと反対の手で頬を掻いた。
 視線は集まるのだが、目線は合わない。一瞬合うと逸らされる。だが其れが普通だろう。志貴も学校の廊下に和服で下駄の人が歩いていたら、話の話題にしてしまうし眼は合わし難い。

 生徒たちの横を過ぎて行く。下駄の音がからころと、生徒の視線がずらりとなる。室内で下駄は間違いだったのかもしれないとも志貴は思った。否、学校で下駄は間違いだったのだ――とも思った。しかし代えのスリッパを持っている訳もないので、このままでイリヤの教室へ行く。

 志貴は教えられた教室の扉に手を掛けて貌を入れた。教室の後ろ側だ。さらりと見回して、沢山の黒髪の中に一層綺羅びやかな髪の少女を見つけた。
 イリヤは制服姿で髪形はポニーテールにして纏めている。伊達である四角い小さな赤縁眼鏡は彼女を知的に魅せていた。

 イリヤは友達と窓際で話しているらしかったが、騒がしくなった教室に気付いて周囲を見回して志貴と眼があった。

 イリヤは、はてなと小首を傾げて志貴を上から下まで視軸をずらして観察した。何故いるのか思考しているのだろう。
 志貴はトランクケースを担いだまま、扉に掛けていた手を離してぴっと立てた。

「ちす、イリヤちゃん」

 志貴は軽薄な挨拶をした。
 教室の視線は志貴とイリヤへ集まった。

 イリヤは一度小さく頷くと、駆け出した。人を避け机を避け椅子を避け、なるべく勢いを殺さぬ様に一直線に走る。
 軌道の横にあった机の上から英和辞書を左手でばしりと引っ掴む。武骨な学習の友だ。
 イリヤの姿勢は低く、低空滑空をする鳥の如く最小の動きで最短の軌道を描く。ポニーテールが空を踊り、辞書を持った左手はだらんと下げられ、辞書は躰の少し後ろの床をちりちりと疾る。
 たんたんたんと軽快な跫が鳴る。志貴との距離が縮まって行く。

 イリヤは一段低い体勢になり、赤縁眼鏡の奥の赤い瞳がきゅ、と細められた。下から志貴を見上げる。ぎゅうと床を踏み込む。上履きのゴムが摩擦で焼けて床に跡を付けた。
 ぐんと背を伸ばす。勢いを殺さずに疾走を一瞬の瞬発力へ変え、辞書は円弧を描き、其の弾道は志貴の顎を狙っている。

 一瞬の間。
 武骨な凶器がぎゅんと打ち上げられた。

「わわっ」

 志貴は声を上げた。後ろへとんと下がって躱す。
 辞書は志貴の前髪を掠り、ぴんと弾けさせた。

 イリヤは辞書を持った左手を頭の後ろまで上げて背をうんと逸らしており、ぱりっとした制服に隠れた適度な膨らみの胸が自己主張をしていた。辞書をえいと志貴に投げた。
 志貴は挨拶をした手で、至近距離から結構凶悪な速度で打ち出された其れをぱしりと掴む。

 イリヤは人差し指を志貴の貌へぐいと突き出した。志貴を見上げ、上目遣いで頬を膨らませて口先を尖らしている。赤い眼と黒い眼は、イリヤの眼鏡はずれており、志貴の眼鏡というフィルター一枚を挟んだ形で絡んだ。

 教室はしんと静まり返っている。誰一人喋らない。突如現れた和服と学園のアイドルが、一触即発の状態にある。
 生徒たちは和服とイリヤの関係に思考を走らせた。生徒たちが見てきたイリヤは、超然とした冷たい美貌と明るくて柔和な笑顔という相対した美を併せ持つ少女だ。言葉で大河を丸め込めた光景を見た事もある。何故和服に攻撃したのか。今何を云うのか。

 イリヤは口を動かす。

「シキ、下履きで校舎内に入っちゃいけないのよ!」

 耳を傾けていた者は肩をがたりと崩した。
 そっちかよ。

 問題ないよと志貴は応えた。

「これは校舎に入ってから卸したものだから汚れていない」

「そうなの」

 イリヤはこてんと小首を傾げた。
 志貴はこくりと頷いた。

「其れよりもほら、お弁当忘れていったよ」

 志貴はトランクケースから白い弁当箱を取り出して差し出した。

 ちょっと待ってとイリヤは云った。そして自の机の横に置いてあった、橙子から借りた武骨なトランクケースを志貴の下まで持って来て、ぺたんと床に座って箱の中身を確認する。

 はわっ、とイリヤは驚いた。其れから志貴を見上げる。

「私のがない」

「だからほら、お弁当」

 志貴は白い弁当箱をイリヤの眼前に差し出した。
 イリヤはおずおずと其れを受け取った。そして胸に抱く。

「ありがとぅ、シキー。シロウのお弁当を忘れて行くなんて信じられなかったんだけど、届けてくれて本当にありがとぅ」

 イリヤはぺたんと座って志貴を見上げ乍ら、微笑みをほんわかと浮かべた。





















「まだ民谷氏の冬木市へ入る手続きは終わってないです」

 司書である女性は云った。
 学園の図書室である。

「妹の方は問題ないですけど、兄の方で行き詰まっているです。兄である鏡耶(かがみや)氏は『護幻帝士』でしょう。私のような『戦術士』と比べたら『護幻帝士』は格が違うです。第二種戦術士試験に合格できれば『陰陽寮』の第二種国家資格を得られますけど、『護幻帝士』はエリートですから。まあ埋葬機関のバケモノたちには毛程も敵いませんが、日本において有数の実力者です。『協会』も『教会』も渋っているですよ。今は私のようなちんくしゃぐらいしか入るのを認められてないです」

 司書はけけけと短く笑った。善く喋る女性である。
 全体が小作りで、小さめで切れ長の奥二重が印象的である。大きめのワイシャツと薄い灰色のジーンズ。派手な訳ではないのだけれど、そして取り立てて美人とか不美人とか云う事もないのだろうが、話し出すと目立つ。志貴よりも年上なのだが、雑気があって小娘のようだ。

 志貴は椅子に深く腰掛けて溜息を吐いた。予定が思うように進まない。此れでは駄目だ。何か手を打たなければならぬ。



 彼女は、日本における神霊事象を統括する『内閣直属霊的防衛機関陰陽寮皇土管理局』の『戦術士』の一人である。『派遣戦術士』として【冬木市】における事象現象を観測し記録し、一等霊地である【冬木市】と『陰陽寮』を繋ぐ者である。しかし繋ぐと云っても特にやる事はない。『陰陽寮』は【冬木市】の権利を『協会』と『教会』に奪われており、直接干渉する事は出来ぬ。ただ観測するだけで事故処理もしない。
 そして。
 『陰陽寮』に帰属する者は【冬木市】には彼女しかいない。其れに彼女は、7年前から【冬木市】にいるらしいが、()の『聖杯戦争』で『マスター』に選ばれぬ程魔導適性がないそうである。故に『陰陽寮』が直接干渉出来ぬ【冬木市】に滞在出来たのだが、其れでは何故第二種戦術士試験に合格出来きたのかと尋けば、魔導知識と魔導とは違う神秘である超能力を保有していると志貴は聞いた。透視や遠視が出来るらしい。観測には役に立つ。【穂群原学園】の図書室の司書を務める傍ら、熟熟(つらつら)と【冬木市】での出来事を書き留めているそうである。

 志貴が図書室に来た理由は、時間に空きが出来た為であった。イリヤに弁当箱を渡した時に、休み時間は終わりそうになっていたので二言三言しか会話を出来なかった。短い会話の中で、昼休みに屋上で一緒に昼食を摂ろうと云う事になり、其の空いた時間に司書を訪ねる事にしたのだ。

 『戦術士』でもある司書と会う事は、志貴が今まで学校に無断侵入していた理由の一つである。血液に関する魔を探求している魔術師、否方士(・・)民谷鏡耶との面会の件の進行具合を聞きに来ていたのだ。しかし政治的な思惑が、志貴の目的を妨げていた。



 別の場所では駄目なのか――志貴は髪の毛を掻き毟った。

「【冬木市】でなくとも都合がつく場所はあるだろう。俺は、ここでなくてはいけないと云う訳ではないんだ」

「君のその言葉はこれで何度目だか覚えているですか。8回です8回。あたしに何度も同じ事を云わせないで下さいです。――云ったでしょう。《『殺人貴』が【冬木市】で『護幻帝士』と会見する》と云うのが重要であると、つまり《『協会』と『教会』の【冬木市】へ『陰陽寮』の『護幻帝士』が滞在する》と云うのが重要なのです。私のいけ好かない上司が云ってたです。あの狸は『陰陽寮』の【冬木市】の干渉権を少しでも得たいようですよ。だから我慢です。民谷氏も【冬木市】の重要性は解るそうですけど、さっさと済ませたいようですし」

 司書は両腕で膝を抱えて椅子に踵を乗せ、膝の上に顎を置いた。
 だがなと志貴は云った。
 仕方ないですと司書は片手を広げて突き出し、志貴の言葉を遮った。

「それに君は、前回の『聖杯戦争』の生き残りたちとよろしくやってるみたいですから、もう『姫君』の事なんか――」

 司書は突然、ぐうと唸った。頬が痙攣(ひきつ)り、視界が霞む。睫が小刻みに震える。眼球が振動しているのだ。
 何もされていない筈だ。しかし心臓は激しく喉許で打ち始め、酷い寒さに出遭った様に体がぶるぶると震え始める。内蔵がぐうっと収縮し、目の前の景色が廻り始める様な予兆に囚われた。
 ただ。
 司書の眼の前の志貴が表情を消していた。感情が消失して能面の様である。まるで死相だ。生者の持つ表情ではない。死人の面。頬に赤みはなく、青白い。眼鏡越しの両眼が薄く細められている。凶相という訳ではないのだけれど、司書は志貴の無表情に威圧される。

「――失言でした。情報が、届いたら知らせるですから、出てって下さいです」

 司書は掠れた声でそう云った。
 志貴は椅子から寛悠(ゆっくり)と立ち上がった。そして図書室を後にした。



 司書は、志貴が来る前まで読んでいた本を再び開いた。活字に視線を落とすが、全く読めない。本はかたかたと震えている。否、司書の手が震えていた。溜息を吐き、本に栞を挟んで大きな机の上にぽいと投げた。本はからからと滑り、机の中央で止まった。

 ――殺人貴ですか。さっさと冬木から出て行ってくれないですかね。壊れた存在ですよ。

 司書は再び溜息を吐き、机の上に身を投げ出して突っ伏した。不貞寝である。睨まれてから平静を保っていたつもりだったが、そんなことは出来なかった。
 司書は常人の世界とはずれたモノを視ている超能力者だが、遠野志貴は更にずれたモノを視る者であった。あそこまで壊れていて、未だに生きていることが信じられぬ。()れ程の死臭を放てる者が、『此方側』に居る者達が相手とはいえ、如何して普通に暮らせるのか。解らない。だがしかし。
 【千年城】で眠りに就いたと聞く、()の執行者真祖の王族アルクェイド・ブリュンスタッドを求め求められた存在は、彼れくらいのモノが丁度良いのかもしれぬ。決して滅ぼせぬと言われていた死徒27祖を3体消滅させた殺人貴。其れが壊れていないなど有り得ぬか。

 ――けど、可哀想な存在かもしれないですね。

 司書はまた溜息を吐いた。






















 志貴とイリヤは、季節が初冬となって気温が低くなっているのに関わらず、学校の屋上に居た。志貴は和服の上に蒼い布を羽織って壁に()り掛かり、イリヤは志貴の対面で外套を羽織ってコンクリートの床に敷いた白いハンカチの上に座っていた。そして志貴のトランクをテーブルとして使い、士郎と桜の手製の弁当箱を広げていた。既に弁当箱の中身は空になっており、代わりに湯飲み茶碗と白いカップがトランクの上に置いてあって魔法瓶から注がれた緑茶と紅茶が湯気を出している。

 寒くないかと志貴は尋いた。

「寒くないわよ」

「本当?」

「ちょっと寒いかも」

 イリヤははにかむ(なが)らカップを手に持ち、両手で包み込むようにしてふうふう吹いた。一口こくりと飲む。熱い物が喉の奥から過ぎたのを判る。肚の底に溜まった。ぽかぽかとする。

「あったかぁい」

 志貴は苦笑した。わざわざ屋上でなくても良かったと思う。けれども好奇の視線に晒されなくて済む処で食事を摂れるなら、寒さを我慢してまで此の場所に居ることを良いとも思う。

「ねえ志貴。どうしたの?」

 イリヤはカップを抱えたまま上目遣いで唐突に尋いた。
 何が、と志貴は首を傾げて聞き返した。

「ぴりぴりしているというかどろどろとしているというか、巧く表現出来ないんだけど、何か変よ」

 志貴はイリヤの瞳をじっと凝乎(みつめ)た。それから溜息を吐いて後ろ髪を掻き毟った。

「鋭いね、イリヤちゃんは」

 志貴はイリヤに見透かされていると思ったことが多くある。彼奴よりも赤みが薄い瞳が、志貴が知らずに肚の底に溜まめてしまった様様な思惑をも掘り起こしているのではないか――とも思う。
 しかしそれは志貴の幻想で、イリヤの魔眼にはそんな力はない。ただ自分というモノが希薄だった為に、周りの変調に敏感なだけだ。一般人にも其れぐらい感じられる者はいるが、相手を想うが故に感じられるのではなく、人形であったが故に周囲の泥を感じられるのである。

「民谷との件が全く進まないことが、ちょっとね」

 志貴は湯飲みに視線を落とし、司書に云われた民谷氏の件の内容を話した。

 イリヤはカップを口許で留め、時折傾け乍ら話を聞いていた。湯気によって赤縁眼鏡が曇ってしまったときはあるが、気にしていなかった。

「ふぅん。組織に属している者だから、政治的な問題は避けられないのね。『陰陽寮』は『協会』よりも組織的だし、上下階層の厳しい処らしいわ。日本の特色かしら」

「そう、だからまだ駄目みたいなんだ」

「けれど志貴――」

 イリヤはすらりと立ち上がり、四角い赤縁眼鏡を外してポニーテールに束ねていた髪を解いた。絹糸のような髪がぱらぱらと広がる。
 志貴は、突然のイリヤの行動に眼を丸くして戸惑った。其れは、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンの魔術師としての姿だった。

「――民谷の魔導で『姫君』を助けられると思っているの」

 びきり、と(ひび)が生まれる。信用している者からの唐突な言葉。志貴はイリヤの眼を見た。赤い瞳。
 其れを酷く冷たいと思った。

「魔術師として言わせて貰えば、今の時代で吸血衝動の解明解決は不可能よ。あの『魔導元帥』でさえ呪いの解呪が出来ない。それに現代の魔術師は、衰退する一方だから期待出来ない。民谷がどう行った道筋で『根源の渦』を目指しているのか知らないけど、吸血衝動を研究することは本筋ではないでしょう。それに衝動の解決は、どちらかと云えば医療にも含まれるんでしょうね」

 其れはシオンから聞いたことがある。月落としを素手で受け止め、『究極の一』朱い月を倒した魔法使い。『万華鏡(カレイドスコープ)』『宝石翁』『魔導元帥』キシュア・ゼルレリッチ・シュバインオークという名の吸血鬼であって魔法使い。しかし翁でさえ、吸血衝動を堪えられぬそうだ。

「私たち魔術師の魔導体系は、自然科学(サイエンス)による医療(白魔術)隠秘学(オカルティズム)による魔術に別れたわ。魔術はカバラ、アストロロジー、アルケミー、ルーンなどがあって更に細かく系統分けされる。そのどれもが解決出来なかった。日本の魔導体系は、五行や道教などを取り入れた複合魔導術陰陽道と御霊ふるいの神仙道などよね。日本の術者で吸血衝動を解決出来ると思ってるの?」

「それは――」

 イリヤの云いたいことは解る。
 志貴はカバラとか陰陽道とかよく解らないが、吸血衝動を解明解決出来た者は居ないことを知っている。『分割思考』『高速思考』の錬金術師シオン・エルトナム・アトラシアの計算でさえ、答えが出ていない。
 彼女から聞いた魔導の在り方。公としての技術自然科学(サイエンス)による医療(白魔術)の発展。個としての技術隠秘学(オカルティズム)による魔術(黒魔術)の衰退。公と個。そして『根源の渦』という川から幾数もの支流に別れた様様な魔導体系。其の一つに過ぎない日本の魔導技術で、朱い月によって架せられた呪いを解呪出来るのか、とイリヤは問うている。
 其の問題は、志貴の思考をぐらつかせる。

「今まで吸血衝動を研究して来た魔術師は多く居るわ。その事如くが行き詰まったけどね。でも彼らが研究していたのは吸血鬼(死徒)の吸血衝動であって真祖のではない。血液全般を取り扱っているらしい民谷は、土俗の吸血種である妖怪(魔獣)なども調べていたかもしれない。吸血鬼(死徒)一種だけではなく、多種を研究していたのなら、吸血種最高位にして肉体を持った精霊種である真祖と類似した存在の研究資料はあるかもしれない。けれど所詮他種は他種。真祖ではないわ」

「――そうかもしれない。けどね。少しでも関係する情報があるのなら、俺は知りたい。衝動を抑える為にずっと城で寝てる彼奴を、叩き起こしてやりたいんだ」

 志貴は座ったまま鋭く眼を細めてイリヤを見上げた。
 イリヤはトランクを迂回して志貴の眼の前に立った。膝と腰を曲げて志貴が凭り掛かっている壁に右手を当てた。志貴の貌が近くにある。
 志貴はイリヤの眼をじっと凝乎る。大きな紅い瞳に志貴の貌が写っている。其れを縁どる、濡れた様な白の、長い長い睫。淡雪の如き白い肌。すっと伸びた高い鼻と形の善い桃色の口唇。陰光で煌煌(きらきら)と輝く真っ直ぐに伸びた白銀の髪。さらさらと流れるイリヤの髪が頬に触れた。
 小さな口唇が動く。

「真祖の姫をどう思っているの」

「愛している」

「何がしたいの」

「時間を共に」

「何故」

「殺した責任は、俺がとる」

 志貴が答えると、イリヤは壁から手を離して背を正し、眼を細めて柔和な微笑みを浮かべた。

「うん、好い眼と言葉ね。
 志貴、魔導世界に不可能な事象はないわ。(システム)魔導(ソフト)がきちんと噛み合えば事象は顕現する。アルクェイド・ブリュンスタッドの呪いを解呪することは不可能ではない。可能な確率はある」

 だから頑張ってねとイリヤは云った。

 其の言葉は、思うように行かなくて不安定になっていた志貴の心を安定させた。政治的な問題や魔導の可能性への不安など、様様な揺らぎを拭い去った。現状が変わった訳ではない。志貴の意志を強固にさせた。
 女は強いな、と志貴は思った。どの年齢の女性でも、芯がしっかりとしている者の言葉は他者に影響を与える。

「――ああ、頑張るよ」

 志貴は口許を綻ばして微笑みを返した。







第三章 少女の学校 中幕









あとがき


其の一

 [冬空の下]は、改訂前の三章であった『陰陽寮』を掲載してしまうと、残り三話で終わってしまいますから、その前に書いてみたいエピソードを入れることにしました。
 学校などです。

 桜とライダーの絡みが好きです(笑)

其の二

 二人乗りで坂道なんて並の人には無理です。実は志貴よりアーチャーの方が自転車が似合っていると思ったり(笑)
 イリヤの勘違いからの一撃の描写は二、三行で済みそうなのに、何故か戦闘描写を使ってました。まあその後の笑顔とメリハリが効いてて良かったかな。
 作者的にはぺたんと座ってトランクの前で、はわっと驚いたイリヤがお気に入りです

其の三

 ただ志貴×イリヤではなく、志貴とイリヤの絡みを多く書こうということにしました。イリヤはお姉ちゃんです。うだつのあがらないヘタレな奴には、喝を与えてくれます。
 次章はイリヤ視点で展開したいと思います。

 それでは


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