冬空の下

第四章 獣








 夏に比べて短い時間しかない冬の昼。雲一つない晴天は、赤く焼けたと思ったら既に(くら)く成り始めている。鴉が鳴けば帰宅の時間だと云う内容の童謡を士郎から聞いたことはあるが、この公園では鴉だけでなく虫の音もしない。鳥は幾十メートルも先の獲物を見られるのに、夜になったら全く機能しない視覚を持つ為に、誰彼刻まで羽を休める。しかし此処は、羽を休めるのに丁度良い樹木は多数あるのだけれども、鳥も虫も存在しないみたいである。

 ――前前回の聖杯戦争終結の地であり、シロウが救われた地、か。

 イリヤは座っているベンチの上に掌を添えた。今まで皮膚と触れていなかった箇所だから体温で温まっていたということはなく、ひんやりと冷たい。
 公園は冬の乾いた空気に覆われているけれど、その内に包する聖杯によって穢れた黒い泥が乾くことはなく、黄昏刻によって葉の落ちた樹の影が黒黒と乱立する光景を、静止ししている筈なのに、今にも動き出しそうな予感を喚起させるモノにしていた。

「――やっと来た」

 イリヤは公園の舗装された道を見た。細くて長い黒い影が、アスファルトの道から逸れて此方に続く芝生を踏んで来る。
 人の貌が見え難くなる黄昏刻は、ベンチに座る少女と女性を黒く縁取っていた。しかし二人が近付くにつれ、陽の残り火と空を覆い始めた星と月の微量な光によって、黒く塗られた輪郭のみではなく、豊かなな色彩を認識出来る様になった。

 細くて長い黒い影だったものは、イリヤの前に立ち、遅れました、と云った。
 長い銀紫髪をシニョンに纏めたライダーである。淡い桜色のセータと黒のデニムパンツ。少し大きめの銀縁眼鏡。ダッフルコートを羽織っているイリヤに比べ、とても寒そうだけれど、英霊が寒くて炬燵で丸くなることもないのだから、これぐらいの寒さなど問題無いようである。

 ライダーはイリヤの脇に腰を下ろした。

「この季節になると陽の沈みが早くなりますね。家を出るときは明るかったのですが、既に昏くなってしまいました」

「そうね。それに冬の夜は、あの頃を思い出すわ――」

 暫く、二人は言を閉ざした。聖杯を奪い合った、冷たい冬の夜。

「――それで、あの件はどうなりましたか」

 ライダーは髪を梳き(なが)()いた。

「十全よ。協会に借りを作りたくなかったから、伽藍の彼を頼ってみたの。橙の身内であるから仲介料を払うことになったけど。でも彼への料金は、知らぬ仲ではないということで随分と割り引きをしてくれたみたいだわ」

 ああ彼ですか、とライダーは云った。

「橙の縛りがあったから魔導の関わっていない表層までだけど、民谷家の過去と現在、『陰陽寮』の在り方を調べて貰った。それによると、民谷は東北に位置する白神山地の一部の霊地に住んでいるそうよ。まあ、橙も説明してくれたみたいだし、割りと詳しく調べられていたわ」



 過去を調べるにあたって、正規の歴史書だけでなく、その地域の口碑伝承も集めてみました。
 ちなみに日本だけでなく、世界各国の土地には様様な口碑伝承が残されています。世界で似たような伝承や神話が存在する理由は、橙子さんが云うには、魔導が『根源の渦』というモノから流れている細い川であるに過ぎないからだそうですね。
 そして、アーサー王に関する文献や日本書記に書かれたような有名な話だけでなく、地方には地方の伝承があります。

 僕にとって『此方側』では、それぞれの地域の化け物などの(あやかし)は、時代の移り目とも云われる近代化や科学技術によって多くが迷信だと駆逐されましたけれど、田舎では妖精に悪戯されただの狐に化かされたなどの言い伝えが残っています。親から子へと受け継がれる村内の神秘は、親が話を信じなくて子へ伝えなければなくなってしまう。けれど、言い伝えとして残れば違うそうです。神秘は物語という型に当て嵌め、形を伴って残りました。橙子さんが云うには――



 言い伝えにも種類がある。昔話、世間話、民話、説話、そして伝説――これらを区別している人は少ないかも知れんが、それぞれ違う。

 白神山地にも伝説があった。詳しくは黒桐に調べさせたから、後で聞け。

 言い伝えの中でも伝説とは、リアリティが無ければ存在しない概念だ。物語の面白さを重視せず、所謂(いわゆる)事実としての側面を後世に語り伝えた場合が伝説となる。

 必要ないかもしれんが、伝説についてもう少し具体的に云っておこう。

 では誰もが知っている桃太郎――これは昔話だ。
 桃太郎は、むかしむかしあるところに爺さまと婆さまがおった――と語り出される。

 時代、場所、固有名詞が特定されていない。桃太郎と云う名前さえ記号だ。型さえあればリアリティなどはどうでもよい。
 しかしな。
 鬼ヵ島――と云うのがあり、此処にその昔、桃太郎が攻めてきたことがある――と云うことになると、話が違って来る。

 これは伝説なんだ。具体的な事物に関わる物語になってしまうからだよ。この場合、ただの記号だった桃太郎も、実在の人物となってしまう。名前はともかく、それに比定される人物が過去に存在した――と云うことになるんだ。鬼も、怪物か妖怪かどうかは別にして、それ相応の悪者が其処に居たのだろう――と云うことになる。
 これが過去に事実と信じられていたと云うことなんだ。

 伝説が残っていると云うのは、リアリティが残っていると云う意味であって――。
 因みに桃太郎型の昔話は全国各地で語られている訳だが、本家とされている岡山県では――伝説だ。

 神話、迷信、御伽話などは、またそれぞれ違うが、必要のない情報なので省くぞ。


 だから周辺には、それ相応の跡が残ってる。伝説などだ。

 白神山地には――。
 鬼が出る。

 けれどもこの鬼は、角があって虎皮の(ふんどし)を纏って貌の赤い――というものではない。

 古い記録などに現れる化け物や異形は、大抵はけだものの変形――大きい小さい、部位の数が多い少ない、あるいは異種の複合――か、さもなくば人間の形をしている。

 鬼と云うのは、今でこそ角があるが、古くは必ずしも角があったと云う訳ではない。現在の鬼のイメージが生成されるまでには、多くの紆余曲折があった訳だ。
 しかし。
 ステレオタイプな鬼が完成する以前から、鬼と呼ばれるモノはいた。
 しかし、角がなければ――鬼は単なる人間の形だろう。少なくとも動物型でないことは間違いない。牛の角に虎の皮の褌と、動物的な形態を獲得した現在も尚、基本は人型を保っている訳だ。
 鬼の原型は、人の姿なのに人でないモノ――性質は別にしても、形態はあくまでも人間だ。

 しかし、そもそも白神山地がある東北地方は、当時の都市から離れていたから鬼が出ると云うのも怪訝(おか)しいんだがね。村や山との関係だけで考えるなら、現在君らが考えるような鬼的なモノの認識は生まれて来ないものなんだ。その場合は、畏れ崇めるだけならば、山の神とか、妖怪とか、そういうもので良い。

 だから白神山地の鬼は、都市の文化によって鬼で無かったモノの歴史を取って代わったものだろうね。事実が情報によって装飾された訳だ。今回は、この鬼で無かったモノが重要だと思ったのだが、情報の置換が行われると、後から付与された鬼の情報が余分となってしまい、事実と創作が混ざってしまう。
 しかし、鬼で無かったモノが鬼に換わった理由。換わられる共通条件があった。

 鬼は人を喰らう。

 鬼は、人間が実行可能(・・・・)なのに中中出来ないこと(・・・・・・)をするんだよ。世界的規模で見れば人喰いは、習慣となっていたり宗教儀式的なものとしてしている処もあるが、実際は、出来るけれども環境的に出来ないことだ。禁じられている。

 しかし、本那最古の鬼の記述とされる『出雲国風土記』の大原郡阿用郷(おおはらのこおりあよのさと)の目ひとつの鬼からして、既に喰べているし、『伊勢物語』の二条后高子(にじょうのきさきたかきこ)も、業平(なりひら)に攫われた後、あっと云う間に喰われている。



 そして民谷家の本家と2つの分家がある白神山地では、人喰いに関する伝説(・・)を幾つも黒桐が探してきたぞ。

 よくある鬼の話だ。鬼でもない怪物の類いの話もあったが、人を襲った、人を喰らった。そんな物語ばかりだ。その話の裏付けになるか知らんが、人身供物の掟が付近の村にあったらしい、と云うものもあったな。らしい、と云うのも、第二次世界大戦の終戦後に廃止されたそうだ。
 『陰陽寮』が解体、再構築されたその時期に、民谷家は『陰陽寮』に組みするようになったのだから、無関係ではないだろう。供物として捧げられていた者は、民谷が喰らったのではないかな。

 民谷の方士は血を飲む。『血喰仙』なんて通り名を『陰陽寮』から付けられたんだ。その点に偽りはない。
 英霊が遠野志貴から聞いた話も間違っていないだろうな。刻印と摂取した血を継承するのに、兄妹で交わった師である父母の心臓を喰らい、其処まで(しゅ)を深めるんだ。祖たちが今まで飲んだ、血の継承は可能だろう。

 民谷は魔術師上がり、否方士だっかな。まあ、彼らは立派な吸血種だ。けれど死徒とは方向性が異なるために不死性はないのだろう。手当たり次第飲血しているらしいから、遠野志貴も既に血を提供しているんじゃないか。吸血衝動の解明なんて無理だと思うけどね。

 結論を云えば、民谷家は吸血種であり方士、そして『陰陽寮』に所属している。祖には土着の吸血種がいるようだ、と云うこと訳だ。鬼ではないだろうが、似たようなモノを祖に持つのだろう。危険じゃないが、安全でもない家系だね。しかし君たちには英霊がいるんだ。問題はなかろう。



 既に日は暮れている。夜の帳が降りており、辺りは暗い。煌煌と地を照らす月と綺羅綺羅と輝く星星、そして人工の街灯が公園を染めていた。

 ライダーはベンチの上で組んだ足を一度崩し、左右を組み換えた。

「伝説ですか。私は神話に含まれる存在でしょうから、説明体系は異なるのでしょうね。
 日本における鬼に関する考察なども大変興味深いものでした。が、鬼でなかったモノが、方士になったと云う訳ですね」

 そうだね、とイリヤは答えた。

「民谷は吸血種にして方士。遠野の鬼に似ているんじゃないかしら。まあ彼女は、本当に鬼を祖にしているのだけれど。
 それにしても、彼の探査能力は著しいわ。彼は200を越えるレポートを報告のときに添えてくれたの。橙の説明付きと云っても、量が半端じゃない」

「魔導が関わっていない『彼方側』の情報だけでも、彼はたった2週間でそれ程の量の記録を調べ上げたのですか」

「そう。橙が手放したくないのも判るわ。彼は優秀よ。シキが知らなそうなことも解ったし、結果は十全ね」

「――それで、士郎と桜にも話すのですね」

「ええ。貴女が、なるべく二人を『此方側』に関わらせたくないのは判るけど、お兄ちゃんと桜も知らないでいるより知っておいた方が良いと思う。志貴の客と云っても、魔術師よ。幾ら護符やアミュレットで遮蔽しても、桜の状態は露呈するわ。橙の魔力殺しでさえも遮蔽し切れない特殊性だからね」

「仕方がありませんね。志貴を追い出す訳にもいけませんから」

「それにもしものことがあれば、殺しちゃえば良いじゃない。『陰陽寮』が【冬木市】に入るだけでも異常なのだから、入って死んじゃっても文句を云われる筋合いはないわ」

 イリヤはライダーの方を向き、微笑みを浮かべた。其処には何処か、妖艶さを纏っていた。

「それもそうですね。では、そろそろ帰りましょうか。士郎と桜が夕食を作って待っています」

 そうね、とイリヤは笑みの質を変え、柔和な微笑みを浮かべた。























 郊外に人が寄り付かぬ森がある。
 一帯に樹木が生い茂り、昼なのに薄暗い場所である。郊外の森の殆んどは『アインツベルン家』の領域であるけれど、森(すべ)てを含んでいる訳はなく、此処から結界の境界までの距離は一山離れていた。

 その森の奥――。
 篠衝雨(しのつくあめ)に煙る森深い獣径をひたすら進む、羽織袴の青年の姿があった。
 この青年、名を遠野志貴という。志貴は草を踏み分け枝を弾いて、ただ足を進めていた。

 ――深いな。より奥か――だが。

 志貴は立ちすくんだ。

 折からの激しい雨が山間の谷川をどうどうと溢れさせている。
 澄んだ清流だったはずの小川も、今は上流の泥土や砂利が混じり、もはや濁流としかいいようがなかった。

 ――日を改めた方が良かったかもしれない。

 険しい山道である。引き返せば山の中で夜を迎えることになる。
 今更戻ったとしてもまた明日来ることになる上、雨があがる保証はない。それに夕食は要らぬと書き置きもしてきた。

 明け方から雲行きは怪しかったのだからその時に止めておけば、このような差し抜きならぬ状況に陥ることはなかった。川沿いに上がって行けば良いと云われたが、もし足を滑らしたら命を落としてしまうだろう。天候を読み違えたのである。

 ――仕方がない。早めに済まして帰ろう。

 志貴は重い脚を懸命に振り上げて、川に沿い、上流へと進んだ。
 傘にばらばらと雨が当たり、遮り切れなかった雨は袴を濡らした。たっぷりと水を含んだ袴が脚に纏わり付く。近頃着慣れてきたといえども、歩き難いこと甚だしい。

 ざあざあ。どうどう。

 天の底を抜いたような大粒の雨である。
 風が凪いでいるのが唯一の救いである。慣れぬ道の上、これで風が強く傘が飛ばされたなら、この後控えていることに差し支えが生じるだろう。



 志貴は依頼を引き受けたことを後悔した。
 今朝学園の司書から暇ですね、と半ば断定した物言いで問われ、志貴は首肯した。【冬木市】を散歩したり【衛宮邸】で転寝したりと、まるでヒモのような生活をしていたので確かに暇であった。そうしたら『魔』の処理を依頼されたのである。

 学園の司書は『陰陽寮』の『戦術士』にして超能力『千里眼』の保有者。『陰陽寮』は『協会』と『教会』に権利を奪われており、直接干渉する事は出来ぬ。【冬木市】の事象現象を記録することだけを課せられた『戦術士』である。しかし彼女は、悪行の発見と解決の手段があって尚黙認することは出来なかったそうだ。

 二人の女性が昨日、行方不明になった。同僚が定時に会社を出る二人の姿を見たのが、警察が調べられた最後の目撃情報であった。
 しかし。
 居なくなった瞬間を殺された瞬間を喰われた瞬間を観ていた(・・・・)者がいた。学園の司書である。
 司書が云うには、二人の女性が【新都】のビル路地で赤い獣に喰われた光景を観たそうである。
 人喰い行為を可能とする『彼方側』の獣が、人が入り乱れる雑踏の中に居るとしたらおかしい。そうしたら警察なり保健所なりそういう機関が処理をしているはずである。しかし人に見つからぬ。故に、『此方側』の存在である訳だ。

 司書はその獣がこの山のねぐらに戻るまでを観続けたそうである。

 『陰陽寮』は【冬木市】に不可侵。『魔導元帥』によって築かれた常識である。殺人鬼に人が殺されようが魔術師に人が攫われようが、爆破事件があろうが儀式魔術が起ころうが不可侵。それが『陰陽寮』の【冬木市】における常識なのである。
 故に。
 『第七位』に『聖杯戦争』の処理を依頼したように、『協会』と『教会』にも少しは無理が通る『殺人貴』に依頼をした。常識をくつがえす為に異常な存在をあてがったのである。

 土がぬかるむ。
 ざあざあ。どうどう。







第四章 獣 中幕









あとがき


其の一

 具体的な話がいるかと思って、民谷の鬼の話を書いていたのですが、ズバッと削りました。

 黒桐くんと橙子さんが何気なく登場。説明させるのに誰が適任かと云えば、遠坂さんはロンドンだから、彼女しか浮かび上がりませんでした。伝説、鬼、と彼女はいろいろ知ってます。
 空の境界とのクロスは、ありそうなクロスなお話で脳内補完を願いまする(爆)

 志貴くんは、次回犬っころと殺し合いです。

 それでは


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