the incarnation of world
朱眼鮮血

最終章 終わりと始まり 第四楽章 滴る血








 暗い。
 暗い、暗い。
 昏い闇い幽い。

 何も見えない。視界は死んで、闇に包まれている。ハリーは、何処だろうかと頸を曲げて辺りを見渡した。

 見えない。闇だ。辺り一面を、空間を、時間を闇が覆っている。こんな闇に包まれていたら、自分が希薄になって行く気がした。

 ずきり、と痛む。あれ。しばしば襲われる頭の痛みではない。腹部が急に痛くなった。臓腑(はらわたが破裂してぐちゃぐちゃに掻き回される様な痛みだ。
 ずきずき、ずきずき。
 痛い、痛い。腹だけじゃない。胸も腕も足も様様な箇所が痛んでくる。じんと熱を帯びたと思ったら、ひりひり、ずきずきと痛む。

 がつん、と側頭部に痛み。足下がぐらついて蹌踉(よろけてしまう。此れも違う。脳髄が上げる悲鳴じゃない。骨が痛いと叫んでいる。

 其の時。
 ぬるり、とした濡れた感触。
 頬を微温(なまあたたかい水が覆った。ぬるり、ぬるり。血だろうか。だくだく、だくだくと血が流れる。

 ――何なんだ此れは。
 ――何処なんだ此処は。
 ――却説(さて)、どうしようか。

 不意に、闇の中に一人の少年が浮かび上がった。襤褸(ぼろい布を纏った小さな少年。年は5、6歳だろうか。前髪は長く、髪が眼の高さまで覆っていて、貌の判別は出来ない。

 少年は傷だらけだった。側頭部はぱっくりと割れ、血がどばどばと流れている。髪は血でぬらぬらと艶を帯びていた。
 袖から見える腕には青痣が幾数もあり、骨折してからろくな治療を受けていなかったのか、歪な形の腕であった。



『どうしてぼくが、こんなめにあわなくちゃいけないの。おじさんとおばさん、だずりーもきらいだ。
 どうして、おとうさんとおかあさんは、むかえにきてくれないの』



 ずきり。ずき。

 何時もより酷い脳髄の痛みと共に、言葉が直接送られた。現状の不満。両親の行方。此れは、眼の前の少年の声か。

 此処が何処だかハリーには解らない。ハリーは少年に声を掛けようと動き。
 ちっ、と舌打ちをした。少年の腕がぐんと伸びてくる。何をする気か解らない。背を逸らして腕を避けようとし、足腰を下げ、後ろに飛ぼうとした時に。
 蒼朱の瞳が、髪の隙間からハリーを貫いた。虹彩は蒼く、白い筈の水晶体は朱く染まっていた。

 底冷えする。感情という感情が欠落した。まるで人形の様な瞳だ。

 伸びた腕はハリーの心臓に突き刺さり、もう一方の腕は頭を穿った。否、突き刺さったと云う表現は正しくない。少年は腕から、ハリーの躰に溶け込んだ。腕、頭、肩、胸部、腹部、太股、脹ら脛、爪先まで、全部ハリーの中に(み渡った。























 さっ、と窓から光りが差し込んだ。三畳程の広さしかない木造の部屋を明るく染め上げた。

 ハリーはずきずきとする頭痛と共に眼が覚めた。頭の痛みに眉を顰めて、頭痛を押さえるのに必要な枕元にある筈の眼鏡を。

 ――眼鏡って何だっけ。

 大切な物の筈なのに、思い出せない。あれ。其れだけではない。様様な事が思い出せない。



 如何して自分が布にくるまっているのか。
 如何して自分が此の狭い部屋にいるのか。
 如何して自分の記憶が欠けてしまったか。



 何一つ解る事はなかった。そして。
 布に付いたぱりぱりと剥がれ落ちる赤黒い固まりは何なのだろうか。自の服も赤黒く、髪に至っては梳こうとしても、何かが引っかかってごわごわとしている。

 思い出せるのは、自分の名前はハリー・ポッターである事。其れと常識的な知識のみ。



 記憶には大まかに云って二種類ある。意味記憶とエピソード記憶だ。意味記憶と云うのは、一般的な知識の事と考えて良い。此れに対してエピソード記憶は、個人的記憶だ。
 所謂(いわゆる記憶喪失、つまり全生活史健忘で消えるのは、このエピソード記憶の方で、意味記憶は障害されない事が多い。だから通常の会話も出来るし、一般常識もほぼ保たれる。ただ、自分の個人的な情報だけが、すっぽり消えてしまうのだ。



 ハリーは、はあと溜息を(いた。

 ――別に良いか。死ぬ訳じゃないし。

 ハリーはベット半身を起こすと、窓から入り込む朝日に眼を細めた。
 汚れた服のままでいるのは気分が悪いので、部屋を漁って服を探した。あったのはくたびれた物だったが、贅沢を云ってられないので、仕方なく着替えた。机の上には白い錠剤が入った瓶や文房具等が置いてあった。筆箱には、ハリー・ポッター・ダーズリーと書かれていた。ダーズリーとは何なのだろうか。自分の名前はハリー・ポッターの筈だ。名前すら曖昧になってしまっているのか。

 窓から身を乗り出して周囲を見回したら、一戸建ての家の二階だと判った。暫し身を明かす物を探したのだが、見つからなかった。



 部屋から出る事にした。黒い扉は無駄に大きく、荷物の出し入れは楽そうである。この部屋は、もしかしたら物置だったのかもしれないと思った。扉の鍵は掛かっていなく、カチャリとノブは回った。扉の先は、誰がいるのか何があるのか解らない。一度深呼吸をして、ゆっくりと扉を押した。抵抗無く、すうと開いた。廊下は、広くもなく狭くもなかった。さりげなく置かれている調度品は、ぱっと見で良い物だろう。中流階級から上流階級の間の地位の家庭なのだろうか。

 木製の床を裸足で歩く。閉まっている扉は3箇所あった。が、開けるのは軽率な行為だと思ったから、既に開いていた部屋を覗いた。開いていた扉の奥は洗面所であった。洗面器とトイレが一体となっている部屋だ。

 鏡があった。少年が一人写っていた。襤褸い布を纏った小さな少年。年は5、6歳だろうか。袖から見える腕には青痣が幾数もあり、歪な形の腕であった。前髪は長く、髪が眼の高さまで覆っていて貌の判別は出来ない。髪を掻き上げて貌を見た。碧色の瞳で、額に変な傷痕があった。前髪が邪魔になっていたから、洗面器にあった(はさみ)でじょきじょきと切り落とした。ぱらぱらと髪が舞う。

 貌を洗う事にした。ひんやりと冷たい水は気持ち良く、頭にも水をかぶった。汚れた髪から垂れる水は、薄らと赤く染まっていた。水が垂れた位置から排水口まで、白い洗面器を汚してしまった。

 だから、つるつると滑る白い陶器を、一生懸命手で擦って汚れを落とした。見た目には汚れる前と同じになったから止めた。洗面器の隣にある鉄の棒には、白いタオルが掛かっていた。貌も髪も手も濡れていたから、借りる事にした。ごしごしと濡れた箇所を拭く。ついでに洗面器も拭いておく。髪を拭いたら、白いタオルが赤くなった。洗面器に続いてタオルを、また汚してしまった。仕方がないから、タオルをトイレの中に放り投げた。水と共に流そうとしたら、ごご、と音を起てて詰まってしまった。流れなかった事に落胆して洗面所を後にする。

 ふと、振り返った。鏡にはハリーが写っている。一瞬、瞳の色が、蒼い様な朱い様な色をしていたと思ったのだが、変わらずに碧色の瞳であった。気のせいかと思い、今度こそ洗面所を後にした。



 廊下を通って階段を降りた。甘い匂いがした。フレンチトーストの匂いだと思う。匂いに釣られて廊下を歩き、扉は開いていた部屋に入ると、其処は居間だった。見回すと、妙齢の女性が台所にいた。栗色の髪を腰まで伸ばし、目尻に皺がある。女性は台所から目の前に立ち、ハリーは鋭い目付きで睨まれた。

「ハリーですか。――何ですか、■■■は。■■■■■■■■め。■■■い。パンと水は■■■■■■■から、早く■■に戻りなさい。■■■■■ません」

 女性の声は、ノイズが混ざってよく聞こえない。其れよりも、女性の感情がハリーに流れてくる。<嫌悪><迷惑><優越>が、ハリーの脳髄を掻き乱す。
 頭が痛い。
 ずきずきと頭痛がする。

 女性は愚痴愚痴と煩瑣(うるさ)い。黙れ。感情を垂れ流すな。
 ハリーは額を手の平で押さえる。
 ひやりとする手の平は冷たくて気持ち善いが、頭痛に対して気休めにしかならない。
 消えてほしいとハリーは思う。
 其の時。
 円筒状の朱線が眼の前の女性の腹へ伸びる。



 カンッ。



 甲高い音が響いたと思ったら。
 女性の腹に孔が空いていた。

 ごぽり。ごぽり。
 だくだく。だく。
 ぬるり。

 え、と女性は呟いた。どばどばと赤い血が溢れてきた。テーブルの上の、フレンチトーストにも血が掛かってしまった。
 ハリーは口許を歪める。

 ――なんだ、伯母さんは消えてくれるんだ。

 また朱線が疾る。
 カンッ。
 ごぽり。
 女性の左眼が消えた。
 孔は空洞になっており、一瞬、奥に女性の背後の壁が見えた。
 が、直ぐに血が溢れて来て、空洞は赤黒く埋まってしまった。
 女性は床に倒れる。
 ぬるり。
 流れた血に足を滑らしたのだろうか。
 血が床を流れて行く。
 ああ、汚してしまった。今度は床を汚してしまった。

 ハリーはじっと倒れた女性を凝乎(みつめ)る。
 ぽつりと呟く。
 ぽつりぽつりと呟く。
 ぶつぶつ、ぶつぶつと呟いた。

「消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ」

 雨が降る。朱い雨が。
 絶え間なく降り注ぐ。
 カンカン。カンカン。
 ごぽり。
 完完。カン完。

 音が響く。女性の右手親指が、左膝が、左腹部が、左胸が、頬が、両手が、首が次次と消えて行く。
 服が虫食いの被害にあった様に、孔が、孔が空いて行く。
 ゴルフボールぐらいの大きさの朱が、次次と肉を喰らって行く。
 ごぽりと孔から血泡が湧き上がる。
 だくだくと溢れ、終いには血を吹き出す肉塊は無くなって来た。

 女性の姿は消え去った。後に残ったのは、赤い血のみだ。鉄錆の匂いが鼻腔を擽る。血の匂い。人間の匂いだ。フレンチトーストの美味しそうな匂いに誘われて部屋に入ったのに、今では血の匂いが部屋を満たしていた。

 テーブルの上にある、美味しそうな匂いの素だった物は赤く染まり、不味そうになってしまった。しかしお腹は空いていたので、仕方なく食べる事にした。テーブルに寄ると血溜まりを踏む事になって、裸足では、床は血でぬるりと滑らかだった。ぴちゃりぴちゃりと音がする。足と床を赤い線が数本繋ぐ。粘つく血だ。食べたフレンチトーストは、血の味がした。矢張り不味かった。

 食事の最中に、少年と男性が来て騒いでいたが、煩瑣かったので喉を消しておいた。二人は部屋の入口に重なって倒れている。

 ハリーは殺す事は悪い事だと思う。だが。
 殺したら、無駄な他人の感情を識らなくて済むから殺した。溢れ出す他人の感情を識る事に、何の意味があるのか。まるで、ハリーという器に、無理矢理別の魂を注ぎ込まれる感じがして、酷く気持ち悪かった。其れに、感情を流し込まれた時は、必ず頭が痛んだのである。だから殺した。

 部屋は肉塊と血で汚れていた。ハリーは、また汚してしまったと思った。起きてから洗面器とタオル、部屋と汚し過ぎだ。
 けれど今は良い掃除の仕方がある。
 肉塊も血も綺麗に消せられる。
 深く深く息を吸う。

 そして――。
 ――呪いを紡ぐ。

「消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ」

 ダーズリー家は死に絶えた。



 後に『抑止の魔眼』と名付けられた超能力を使い過ぎたハリーは、綺麗な床にぷつんと倒れた。血の匂いもない綺麗な部屋に、ハリーの寝息は静かに音を起てていた。



 目が覚めた時には、ハリーは記憶を取り戻していた。記憶を取り戻しても、躰の青痣等は、何に依るものかは解らなかった。

 実は、ハリーは机の上にあった白い錠剤によって記憶を失えさせられていたのだ。定期的に記憶喪失、つまり全生活史健忘の状態にさせられて、其の状態の時に、痣をつくる骨が折れる等の虐待を受けていたのである。

 記憶喪失時に虐待を受け、記憶が戻った時には、虐待の記憶を忘れさせられていたのだ。

 記憶喪失者は、記憶が元に戻った時に、記憶喪失時の出来事を忘れてしまうと云われている。当事者にとっては、記憶喪失時と健康時の状態はまったくの別人であり、記憶の共有はないのだ。故に、ダーズリー家の者たちは、何も知らない無垢な状態のハリーを毎回痛められていた。そして記憶が戻った時には、ハリーは虐待の事を覚えていないから、家庭の外に実情が漏れる事はなかったのである。

 今まで生きてきた5年間の記憶が戻り、代わりに、紅い赤い朱い記憶を忘れたハリーは、伯父と伯母、従兄弟は旅行にでも出掛けたのかと思い、暇なので公園に散歩をしに行く事にした。

 此の後、ハリー・ポッターは碇シンジと出会う。























 びくんとハリーの躰は震えた。寛悠(ゆっくり)と目を開け、眼鏡越しに写った視界は紅い。洞窟は真っ赤に染まっていた。視軸を動かしても朱い。

 ハリーは躰を硬直させた。魔眼を通して視界に映る朱とは、則ち攻撃意識、対象の命を奪う事を目的にした<殺意>である。仮令(たとえ)意識せずに実行された事象でも、ハリーの魔眼は視られる。例えば、石が偶然頭上に落ちて来た。偶然落雷に中ってしまった。其の場合でも線は視える。石にも雷にも意識はない。だが、物質的記憶は存在する。

 記憶とは物質の時間的経過。物質は空間において質量と云う形で把握されるが、時間の経過は、物質の『時間的な質量』。これが『記憶の原形』となり、存在するモノ(すべ)てに『物質的記憶』、つまり『世界の記録』がある。ハリーの魔眼は、有機物や無機物など関係なく、対象に影響を与えるモノを『世界の記録』を通して視られるのだ。一部とは雖も『世界の記録』に繋げられるとは、『バロールの幻蛇』よりも化け物じみている。魔術と違って論理立てて説明出来ない、一代限りの超能力の異常性だ。

 故に、ハリーの視界が凡て朱く染まっているというのは、世界がハリーを殺す意志があるという事だ。だから恐怖した。だから縮こまった。こんな、全身を朱に舐め尽くされた状況は、死に直結するのだ。
 しかし。
 何時まで経っても死は訪れなかった。何故。疑問に思って思考を走らせていたら気付いた。周囲から伸びているのではない。ハリーから<消したい / 殺したい>という意識が伸びているのだ。ハリーは其れに気付くと、しだいに落ち着いていった。殺されないのだから、別に良いじゃないか。ロックハートに朱線が伸びていたとしても、何も問題はない。

 えっ、とハリーは喉が震えた。

 何を考えているのだ。何故自分は喜んでいるんだ。汚れたモノは綺麗にするという、訳の解らぬ思考が脳髄にある。だが、人を嬉嬉として殺したいだなんて、ただの殺人鬼じゃないか。ロックハートを殺したいだなんて、おかしいじゃないか。汚れたモノを消したいだなんて。
 ハリーの思考は乱れていった。



「ハリー!!」

 ロンの声が洞窟に響いた。ロンは岩に背中を預けて立っていた。足腰に力は入らない。

 ハリーは寛悠と躰を起こし、立ち上がった。貌を臥せており、足許に落ちている杖が、岩の上で白く発光しているのを見えた。背後にロンの魔力を感じられる。

「大丈夫かい」

 ハリーは、背後から聞こえたロンの声と共に、<心配>と僅かに他の感情を識られた。寛悠と振り返る。

「――ッ」

 ロンの貌は一瞬にして青白くなり、躰が強張った。関節が縮こまる。脊髄の中に液体窒素を流し込まれた様な気持ち。全身が絶対零度にまで冷やされ、故に外気の熱さに躰が焼かれそうになる。脳髄感覚だけが正常だ。絶対極の狭間の圧力に潰されそうな感覚。

 ハリーは、ロンから僅かに識られた感情が迚も強く明瞭になった。其れは、<恐怖>。

 ロンは、仮に正気を保っていなかったならば、刹那を待たずに圧壊されていただろう。
 一種の恐慌状態になった理由は、ハリーが纏っていた雰囲気と其の眼だ。凡てを拒絶し(ながら)、凡てを受け入れる。そんな矛盾した空間。

 ハリーの眼は『魔眼殺し』の眼鏡を掛けているのに関わらずに、朱く、蒼い。ハリーから聞いた『見えざるモノ』を識る眼。何時もは碧色なのに、回線を開くと、眼が内蔵魔力に耐えられずに、魔導的変換を自動的に行って蒼く染まる魔眼。だが。
 今のハリーの眼は其れだけではなかった。虹彩の周囲の白い筈の水晶体が、血の様に真紅に染まっていたのだ。朱に囲まれた蒼い瞳。其れは異質であり、異形である。

 ロンは自が持った感情に舌打ちをした。ハリーに対して<恐怖>を感じるなんて莫迦げている。対象がシンジではあるまいに、あってはならぬことだ。



 ロンは眼を閉じた。銀の針を想像する。光沢のある美しい銀針。其の針を耳から刺して脳髄を貫通する空想を描く。鋭利な銀色の突起が、きんと頭を穿つ。魔術を行使する為に魔力回路を起動させるのと同じ様に。グリフィンドール生であるロナルド・ウィーズリーは死に、錬金術師であるロナルド・ウィーズリーが生まれる様に。冷静になる。感情を調整して冷静になるなんて、魔術師として当前の行為だ。

 寛悠と。
 眼を開いた。

 此処にいるのはグリフィンドール生であるロナルド・ウィーズリーではなく、錬金術師であるロナルド・ウィーズリーだ。持てる最大の能力を発揮して、考えうる限り自の今の能力で、考えうる限り最良の本当に此れ以上無いってくらいに最良の選択肢を、自の為に凡ての為に必死で考えて、最良で最良で最良の選択肢を選んで――そして、其れを何一つの予定違いもなく、実行してみせる。

 錬金術師ロナルド・ウィーズリー。
 『世界の管理者』碇シンジから【アトラス院】の錬金術を学びし――。
 ――魔術師だ。



「まずは状況の確認をしようか、ハリー。師であるシンジさんから修行の一環として命じられたのは、『バロールの幻蛇』の処理だ。僕は動けない。君はどうだい、やれるか?」

 ハリーはこくりと頷いた。

「分かった、任せよう、ハリー。君一人で『蛇』を始末してくれ」

 ハリーは再びこくりと頷いた。地面に落ちていた白き杖を拾って、闇の奥へと溶け込んで行く。薄らと闇に解け行く。

 ふう、とロンは息を吐いた。

「任せましたよ、シンジさん」























 地の上は夜。
 夜の空には。
 ――満月。
 (まる)い、円い、大きな満月が、宙の真ん中に滲んで光っていた。
 まるで吸い込まれる様に。
 ハーマイオニーは光る天体に見蕩(みと)れた。

「シンジさんの『異界』で見る月も綺麗ですけど、私たちの世界の月も綺麗ですよ」

 そうだねとシンジは応えた。

「僕が創った世界の月は、前回旅した世界の物を模しているんだけど、この世界の月も気持ち善い明かりを発してる」

 シンジとハーマイオニーは、芝生に背を付けて【ホグワーツ魔法術学校】の【クィディチ会場】で空を見上げていた。とても広い伽藍とした会場の中心に、ぽつんと仰向けになっていた。会場を照らす明かりは、月と星の明かりのみだ。

「落ち着きましたか」

「ああ、施術は治まった」



 ハーマイオニーの聖句である言葉で、シンジが涙を流して嗚咽を零して身動きしなくなったのは、レイとカヲルが施した常備潜伏型施術が起動したのである。

 施術はただの言葉では起動しない。レイとカヲルが想定した『碇シンジ』の在り方を揺るがす事象に対して、心に防壁を設けるというシンジを護る為のモノだった。人は堪えられぬ事象に対し、部分的に記憶を忘れて心を守ろうとする。此の施術は、善悪関係なく、シンジに急激な変化をもたらす事象に対しての防壁なのだ。其の場に二人はいないのだから、シンジが出会った事象は善い事か悪い事か判別は出来ない。だから善悪関係なく、心を揺さぶる事象に対して防壁を張れさせたのだ。皮肉にも、『碇シンジ』の為の術は、碇シンジの成長を妨げる事になってしまったのである。
 人形はただのヒトガタだ。
 皇家の樹の聖句も、死後の導き人の聖句も、三只眼吽迦羅の聖句も、電子の妖精の聖句も、運命の女神の聖句も、探求者の聖句も、剣術小町の聖句も、幼き超能力者の聖句も、仙人の聖句も、婦警の聖句も、美少女天才魔導士の聖句も、白き姫君の聖句も、碇シンジの記憶ではなく記録へとさせられた。体験が知識へと位階を下げられたのだ。知識となった体験は、ただ本を読んで得たモノでしかない。真実の世界を、モニタを通じて見ているだけ。高い位置からシンジが、ヒトガタを通して見ているだけ。本やモニタから得た知識でしか、なくなってしまうのだ。

 そうでなければ、碇シンジは千年を超える年月の中で、世界を渡って様様な意志(おもい)に触れ、人形という殻を破り、確かな個として形成出来た筈だ。だが。
 レイとカヲルが想いを寄せた『碇シンジ』は、素直な感受性を持つ優しい少年だった。そして、少年は人類補完計画という悪魔の業によって、心を壊されてしまったのだ。そんな事を繰り返させてはいけない。だから心に防壁を張れさせる為に、施術を施したのだ。『碇シンジ』の為に。
 しかし。
 手違いが生じた。『世界の管理者』の『中間管理職者:アダム』の眷属であるリリスとダブリスでは、『魔法:蘇生』を完璧には使いこなせなかった。生き返ったのはシンジであって『シンジ』でない人形である。
 不変を命じられた人形は、どんなに抗おうが人形でしかなく、人形として目的に添って稼働するしかなかった。よって、急激な変化が不可能ならば、時間を掛けて様様な意志に触れ、碇シンジを形造って行く事になったのである。

 シンジは思う。レイとカヲルを責めるつもりはない。如何して生き返らしたんだとか、やるならば完璧にしろだとか、身代わりとなってまで蘇生させるなだとか、支離滅裂に喚き起てるならば、何とでも云えるが、そんな戯言よりも、感謝してもし尽くせない恩を感じている。

 世界渡りの初めの頃、シンジは無感情無思考の機械の様だった。否、様だった、ではない。レイとカヲルに入力されたプログラムをこなす機械人形だった。感情回路とか自律型回路とかはなく、外界から入力された情報に対して、如何にして反射すれば好いかとは決まっていた。喩えば人間ならば、言葉の受け答えすらも、思考せずに脊髄反射で言葉を返し続けていたという事になる。
 けれども。
 碇シンジは、世界と年月を重ねる事で、碇シンジとして成長して行った。まだまだ成長途中の少年であるが、意志(おもい)に触れ、人形は目的を探して実行する事が出来る様になったのだ。

 二人の施術は、碇シンジの意志が幼い時に効果を発揮した。組み立て始めの心は、酷く脆くて崩れ易いので、心に防壁を、絶対恐怖領域を施したのは、シンジを護るという役目を果たせていた。未成熟だったシンジという殻は、心を揺さぶられる事象に対して、其れが善い事でも悪い事でも、余りにも無防備だった。善い体験になる事象でさえ、其の時のシンジには毒であったのだ。

 故に、レイとカヲルの施術は、確かに碇シンジを護っていた。ただ、護りの壁が、今では成長の邪魔になってしまっただけ。だが、レイとカヲルの施術がなければ、碇シンジは此処まで成長出来なかったのも、また事実だ。不変のモノ等ない。世界でさえ、主体の認識の仕方で其の姿を変えるというのに、主体自身が変化しない訳がない。だから、現状で如何して行くかが重要になるのだ。シンジは選択した。様様な世界に触れて、今ではレイとカヲルの施術が枷となっても、恨みはしない。



 目的を探し、目的を実行し、目的を完遂する。

 持てる最大の能力を発揮して最良の選択肢を選び最善の結果を収める。
 其れが――。
 碇シンジの在り方だ。



「シンジさんがあんなになるなんて、思いもしませんでした。何時も超然としているのに、泣く事もあるんですね。嗜虐心やら母性やらを煽られてしまいましたよ」

 ハーマイオニーは云った。
 ふん、とシンジは鼻を鳴らした。

「僕だって泣く事もあるさ。其れにしても、母性はハーマイオニーの様な幼女でも持っているものなのか。それに嗜虐心ってのは、明らかに不適合だろう」

「きっと其れは、私の女としての目標がアンバーさんだからでしょうね」

 沈黙が二人を包んだ。

「――嘘だ、ろ」

「いえいえ、此れが本当なんですよ、シンジさん。カラフルなお注射の製法もお聞きしましたし、何よりアンバーさんの生き様に魅せられてしまったんです。溢れんばかりの権謀術数の数数は、とても素敵ですよ」

「冗談?」

「あはー」

 ハーマイオニーは素敵過ぎる微笑みを浮かべた。
 シンジの頬は引きつった。

「真似てみたのですが。似ていましたか?」

「あ、ああ。僕の運命がそこはかとなく不幸になった気がするよ」

「――くす。そんな事ありませんよ。ハリーとロン、私たちはシンジさんの生徒なんですから。少しぐらい世界の見方から『外れ』ていたとしても、何も問題ありません。それに、そういうものでも、楽しいじゃないですか」

 シンジは、ハーマイオニーの言葉と微笑みに、きょとんとした表情をしたが、誘われるように柔和な微笑みを浮かべた。

「そうだねー。ハリーとハーマイオニー、ロンと華凜、綾音と一緒に笑っていられるのは、とっても楽しいや」

 生徒三人と黒猫リン白猫リンが揃っているのは、今の幸せの大前提だ。

却説(さて)、では行くとするか」

 シンジは唐突に立ち上がって、和服に付いた芝生をぱんぱんと払った。

「どうしたんですか」

 ハーマイオニーは躰を起こしてぺたんと座った姿勢で、小首をこてんと傾げた。ローブの裾から白い肌が覗けた。

「お仕置きさ」

 シンジは悪戯好きの子供がする様な微笑みをして、寛悠と其の姿を闇に溶け込ませて行った。

「お仕置き?」

 月の下には、可愛らしく小首を傾げたままのハーマイオニーが、一人で取り残された。







最終章 終わりと始まり 第四楽章 滴る血 終幕









あとがき
 『朱眼鮮血』の終幕が近づいて来ました。第一章から1年間以内に終わりそうで好かったです。プロットを短めに設定してたのが良かったんでしょうね。

 それにしても、ハリポタの面影がなくなってきてます。ハリポタ好きの人ごめんなさい。ハリーは過去があんなだし、ハーマイオニーは妖女だし、ロンは何気に格好良さ上昇な感じです。

 けれど、最後にハリーは活躍するからそれでどうにか。もちろんシンジも活躍します。二人が活躍です。

それでは

 


[最終章 第三楽章] [書庫] [最終章 第五楽章]



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