救いは月の彼方から
二月の中旬と云う冬なのに、此の【冬木市】は妙に暖かい。そして冬特有の澄んだ空気が辺りを覆っている。 だが。 此の町を包む違和感は拭い去れない。秋葉から聞いた通り、此の町に在った『聖杯』は矢張り『歪み』の元だったのだろう。 遠野の屋敷より小さいが、大きな武家屋敷の様な造りの建物が志貴たちの眼の前に建っている。 シエルは濁り硝子の引き戸の玄関の呼び鈴を押した。 シエルの背中にはイリヤが寝息を起てている。 心臓の代わりに急遽作成された人工心臓では頼りないが、今の処は安定している。半年は持たない躰で、此のままでは二、三ヶ月で死を迎えるだろう。しかし此の先を如何選択するかは志貴たちに権利はない。彼女自身と身内の問題である。 「誰?」 冷たさを含む声色で玄関の先から声がした。 屋敷に居るのは『魔術師』か規格外の使い魔『サーウ゛ァント』なのだろう。其れ故に、此方の異様な集団に警戒をしている。まあ、『真祖』に『代行者』に『混血』に『人間』だ。相手が此方の正体を知らなくても、警戒すべき魔力の流れ等で把握しているに違いない。 秋葉に依ると、遠坂凛と間桐桜、ライダーが『此方側』の者だそうだ。 「『教会』の者です。『聖杯戦争』の停止を頼まれたのですが、終わっていたらしく、事後処理をしています。【柳洞寺】にて衛宮士郎とイリヤスフィール・フォン・アインツベルンを回収しましたので届けに来ました」 しばし、間が空いた。 警戒を解くつもりはないのだろう。少し気になっている人だろうが、想い人だろうが、正体不明の者に連れられて来ては警戒の必要がある。 冷静に判断する『魔術師』故だろう。 玄関の先の気配が一つから二つに増えた。 「鍵は開いてるわ。入って来て」 シエルが硝子戸を開けて中に入り、アルクェイドと秋葉、志貴は士郎を背負い乍ら続いた。 「――ッ」 黒いリボンで髪を二つに束ねている少女が息を呑み、鋭く眼を細めた。。 そして、少女の斜め前には黒装束の紫の長髪の女性が立っている。 遠坂凛とライダーだ。 「初めまして、と云うか何故か臨戦態勢になってますねー。まずは二人を渡した方が良いですか?」 場違いに明るいシエルの声が、緊迫した雰囲気の中を通る。 「勿論。そうして貰った方が嬉しいわ」 凛の返事にシエルはイリヤを降ろし、志貴は士郎を降ろした。 警戒したままライダーが二人を抱きかかえて奥の方に向かう。 「凛。私は二人を部屋に寝かしてきます」 「ええ、判ったわ。後で居間に来て。『代行者』さんも話があるでしょう。私に付いて来てください」 ライダーは、はい、と応えると奥の方に消えて行った。 「そうですね。訊きたい事もありますし、自己紹介等も居間でしましょうか」 シエルがそう云うと、凛の後を四人は付いて行く。 其の間の凛の思考は限界ぎりぎりまで働いていた。 教会の者は『代行者』だと勘繰ったが、どの所属かは判らない。魔力を余り感じないが、隠している可能性が高い。慥かに『聖杯戦争』は教会も幾らかは関わっているが、派遣されるのは『協会』の者の筈だし何処かが怪訝しいのだ。シエルです、と玄関で紹介されれば『埋葬機関』の『第七位』だと知っていたが、容姿のみでは判断できなかった。 其れよりも。 金髪の女性が問題だ。遠坂の記録が正しければ、あれはブリュンスタッドを冠する最後の真祖。アルクェイド・ブリュンスタッドに違いない。何故『白き姫君』が【冬木市】に居る。『代行者』は『聖杯』に関係するだろうと推測されるが、『姫君』は興味が無い筈だ。あのアルクェイド・ブリュンスタッドだ。執行人の殺人機械が居る理由等判る筈が無い。其れに『教会』の者と共に居る等考えられない。矛盾矛盾矛盾。常識の範囲では想像つかない。 そして第一に。 士郎は如何なっているのかだ。彼の状態が気になって仕方が無い。 ――ああ、なんでこんな厄介な人たちに士郎は拾われるのよ。此れで無事じゃなかったら承知しないからね。 随分と勝手な事だが仕方ない。こんな人達が居なければ今直ぐにでも様子を見たり、看病出来たりするのだ。 思考している内に居間に着いた。時間が余りにも足りない。しかし、話を聞けば何か解るかもしれない。 「適当に座って」 凛の言葉に志貴の両隣にアルクェイドと秋葉が座り、シエルは青筋を立てながら志貴の向かい側に座った。今回の件で罪悪感がある為に今は強く出れないのだ。 凛はテーブルの横に座った。此の位置ならば皆を捉えられる。 「わたしの名前は遠坂凛です。まあ、既に知っているかもしれませんね」 『教会』の者ならば其れぐらいの情報は持っていて当たり前だろう、と凛は思っている。 そして、久しぶりに学校と同じく猫を被った。 「まずは士郎たちを助けて戴いて有り難う御座います」 凛は腰を曲げた。さらり、とツインテールが揺れる。 「 志貴と秋葉は一般的な挨拶をし、アルクェイドは適当に挨拶をした。 だけれど、志貴はアルクェイドに絡まれて、秋葉は鋭く眼を細めてアルクェイドの不逞を睨んでいる。しかし凛の前なので今は我慢するしかない。 志貴は困った様な表情になっていた。頬を赤く染め乍ら、冷や汗を垂らして情けない貌になっているのは器用なものだ。 此見よがしと志貴に甘えるアルクェイドの行為にシエルの青筋が一本二本と増えて行く。シエルは挑発に全くの無関心のアルクェイドの様子に更に青筋が増える。 しかし、今は我慢するしかない。凛の前でキレたら収拾がつかなくなる。 「処で。用件は何でしょうか」 凛は膝の上に置いた握り拳をきゅっ、と締め、スッと細めた眼で、会話の進行を任せられているであろうシエルを 其れも至極当然である。『埋葬機関』の『弓』だけでなく、『白き姫君』が眼の前に居るのだ。落ち着いて対応なんてしていられるはずが無い。その上アルクェイドの志貴に甘える様子は、ガラガラ、と凛の『真祖の姫君』の 「『聖杯』召喚の儀式魔術の停止を頼まれていたのですが、何だか終っていたらしいですね。『大聖杯』も完全に閉じられている様ですし、『浄化』は『協会』がやってくれるでしょうし、私たちは特に用はないです」 「そうですか」 凛は正直安心した。其れが――。 ――次の言葉で崩れ去る。 「遠坂さんに伝えておきますね。私たちで出来る最良の処置をしましたが、衛宮士郎は ビギリ、と空間が音を立てて固まった。 シエルが世間話をする様にすらりと滑らした言の葉は、凛の胸の奥にストンと落ち、じわじわと凛を中から蹂躙した。 「――えっ」 軽い問いとも思えない。条件反射の様に凛は喉を震わした。 此の『代行者』は一体何を言った。 士郎が イリヤが死ぬ? 見返したシエルの蒼色の瞳はのほほんとしているが、虚構等をしているとは思えない程澄んでいた。 ならば何だ。 シエルが言った事は本当なのか? 幾戦数戦の荒事を踏み倒してきた『第七司祭』が施した最良の手段でさえも二人を救う事が出来ないのか。 否。 断じて否。 そんな事等は認めない。 そんな戯言云わせない。 そんな真実覆してやる。 凛は胸にズキリと刺さったナイフの痛みを払い落とし、最高の意志を捻込み、最低の言葉を却下し、被った猫を破り捨てた。 シエルを見て鼻で笑う。 「――フッ。なら私が救ってあげる。死に損ないの一人や二人を生き返せないで遠坂凛を語れないわ」 凛は人差し指をピッと立てて云い切った。 凛の剛胆な発言にシエルのみでなく、志貴に甘えていたアルクェイドとアルクェイドを睨んでいた秋葉と秋葉の視線に貌を青ざめていた志貴たちの眼は丸く開かれて心底驚いた表情を形造った。 「――くく」 志貴は噛み殺した筈の笑みが耐えきれなく零れた。 「何!?」 凛のスッと細められた眼に志貴は睨まれた。 「ああ、ごめんね。何か俺の周りでも聞けそうな 志貴の言葉に三対の瞳が注がれる。其れは照れた様な怒った様な、嬉しむ様な口止めする様な、様様な思惑の籠もった視線である。 「凛ちゃん」 志貴の 「一人。確実に直せる人を紹介するよ」 しかし、優しく紡がれた言葉は聞き逃せるものではなかった。 志貴は凛が云った言葉に嘘も偽称もないと思った。此の少女なら絶対に二人を救う手だてを考え出すだろう。どのぐらい時間が掛かろうが、必ず答えに辿り着く。 だが。 今は時間が足りない筈だ。士郎ならまだしもイリヤを救う事は出来ない。アルクェイドが造った心臓は十分芸術に値するモノだが、所詮専門外の付け焼き刃だ。 人体の再現に関して彼女に対抗できる者は現代に存在しない。故に、 橙の魔術師を、と志貴は云った。 「――ッ」 凛は息を飲み込んだ。色を冠する彼の人形師の名は聞き及んでいる。 封印指定の魔術師。蒼崎橙子。 性格は冷徹。冷酷。冷静。冷淡。過酷。厳酷。残酷。苛酷。酷薄。恬淡。平淡。枯淡。淡淡。恬然。苛虐。 自分以外を冷たく処理する魔術師の中の魔術師。 何故志貴が知っているかは解らないが、 否。 今更だったかもしれない。『白き姫君』を手懐けて『第七位』を侍らせて『人でない者』を従える。此程信じられない事は無いだろう。此処まで非常識なら嘘だと思わない。 「よろしく」 故に、凛は頷いた。 志貴は任せとけ、と云うと、眼を細めて口許を綻ばし、穏やかで柔和な笑みを浮かべた。 其の後はライダーも会話に加わったのだが、シエルの、本気ですか! 遠野くん!! やアルクェイドの、辞めときなよ、志貴。や秋葉の、あの けれど此で士郎とイリヤは救われるのかな、と凛は思うと居ても立ってもいられなくなり、ライダーに其の惨状を任して士郎たちの見舞いに行く事にした。 陽が 暦では立春を過ぎたが、未だに【三咲町】では寒かった。だが、【冬木市】は意外と温暖である。ぽかぽかと浴びる陽の光は気分を安らげてくれる。 志貴は木目美しい床に腰を降ろし、両足を土の上にゆるりと泳がせた。視界に広がる庭は整えられている。 志貴にはわびさびと云うものは解らないが、善い庭だと思う。温かで見る者を 「志貴、貴方は何を考えてはいるのですか?」 凛とした声を掛けられた。 志貴が振り返り、見上げると、魔眼殺しの布を巻いている女性、ライダーが口許を引き締めて此方を向いている。 志貴は無言で座っている隣をぽんぽんと叩き、腰を降ろすのを促した。 ライダーは眉を顰めたが、会話を続けるには座っていた方が幾分か楽だろうし、座らなければ答えないと思う上、 ――何よりも見上げられる行為は自の背が高いの意識させられる為に、小さく頷いて志貴の隣に座った。 「別に、何も考えてないと思うよ」 ライダーの雰囲気が徐徐に尖って行く。志貴の発言は此の先――二人の治療――を信用するのには足らない言葉である。 志貴は思う。慥かに見知らぬ他人が此処まで関わるべきではないのかもしれない。他人が訳なく救うと云うのだ。信じられないだろう。 『聖杯戦争』と云う死地を共に駆け抜けた訳ではない。 昔馴染みの縁の者な訳ではない。 正義の味方で困っている人が居たら皆助けると云う思いもない。 「別に、ですか」 ライダーの声色はとても冷たい。 「うん。理由と云える理由はないね」 志貴はライダーの雰囲気を感じ乍ら、其れでも シエルが『陰陽寮』から依頼を受け、 『聖杯戦争』は終わっていた。善かった。本当に善かった。シエルが傷つく事はなく、秋葉が傷つく事はなく、アルクェイドが傷つく事がなかった。 何もやらずに帰っても良いのかもしれない。 【柳洞寺】で少年と少女を見つけ、アルクェイドとシエルは治療を施した。『聖杯戦争』の関係者だと思われた為に治療し、情報が欲しかっただけかもしれない。が、志貴に会う前の二人ならば絶対にしない事だ。アルクェイドは 二人は志貴に出会い――。 ――変わった。 「敢えてあげるとすれば、羨ましかったのかな」 志貴は眼を細めて庭の景色を見る。 木。岩。土。空。様様なものが此の屋敷を包んでいる。 「――羨ましい?」 ライダーは片眉を吊り上げた。 「そう。一人の為に 幸せを ライダーにとって志貴の言葉は曖昧である。そして志貴が知らない筈の士郎の事さえ知っていた。 士郎は桜を凡てを賭けて護ると誓ってくれた。何故此の青年は其の事を知っているのだろうか。具体的ではないが、其れについて青年は語った。何故知っている。ライダーには解らない。 大切な者。愛する者。 大切な者は、志貴と供に来た『白き姫君』と『代行者』、『人でない者』の事だろう。まだ居るのかもしれない。 愛する者は大切な者たちの中の一人だけの筈だ。 士郎に出来て志貴に出来ない事。何なのだろうか。其れが境界なのだろう。 一つ。ライダーは思い付いた。其れは迚も恐ろしい妄想で、迚も残酷な空想である。 大切な人同士が殺し合う。愛している人が大切な人に殺される。 其れは有り得ない空想。凛が桜を殺す妄想。ライダーが桜を殺す妄想。 思考が熱く焼けてくる。有り得ない考えは、何故そんな事を考えたのかとライダーの脳髄を責め立てる。 例えば、例えばの話である。 凛やライダーが桜に刃を向けた時、士郎は如何するだろうか。 決まっている。止めに入って解決出来なければ、また無理をして剣を造る。剣の矛先は大切な人――凛とライダー――。 自の為と云うのが希薄な士郎は凡てを桜に費やす。故に大切な人と 其れは覚悟。 一人の為に凡てを捨て去る決意。 士郎は其れを持っている。 志貴には其れがないのだろう。 否。 ――違う。 ライダーの結論は間違っている。 ライダーのは納得出来る結論だけど、志貴には覚悟も決意も既にある。 異なる点は、大切な人を皆同一の基準に据えた志貴の現状。志貴の罪悪感。選んで欲しいと思っている彼女たちの願いを知っているが、未だ選べない自のふがいなさ。 士郎は桜を選んだ。セイバーを殺してまで進み、自の運命の行き先に剣を突き刺した。 其の違い。 志貴の彼女たちの中から一人を選べない後ろめたさから来る、士郎への羨ましさ。 志貴は唯其れだけの事に切望を感じた。 故に。 選んだ者、士郎の道の続きを見てみたいと云う興味。だから助けた。だから助ける。 橙の魔術師に頼んでまで。 「――貴方は、羨ましいと云う理由だけ助けるのですか?」 「そうだよ。可笑しいかな。それと、士郎たちが如何行った道を進むのか知りたいのかもね」 志貴は穏やかで柔らかな微笑みを浮かべると、景色からライダーへ向いた。 笑みは何処か先に居る者の微笑み、 此の年の者が出来る筈がない笑み、 死に最も近き者が、浮かべる笑み。 ライダーは一瞬其の微笑みに見惚れてしまった。 『脆い世界』を視続ける青年の笑みは、今までに見た事がない表情で、何か気になる微笑みだった。 しかし。 笑みだけで見惚れた訳ではない。志貴の言葉が胸に響いた。 ――士郎たちが如何行った道を進むのか知りたいのかもね 其れはライダーの存在理由。 桜と士郎がどの様な道を歩むのかを見届けるのがライダーの存在理由。 其れは他のどんな言葉よりもライダーの胸に響く音色。 故にライダーは信用した。 此の短い言葉の往復の中に、ライダーの根本にあるものを云われてしまったのだ。 「そうですか。私もです」 ライダーは口許を綻ばした。 先程までの凍えた空間は存在しない。暖かな風が吹き、ライダーの綿糸の様な髪を踊らせた。 張り詰めた空気はない。冬空の下、志貴とライダーの緩やかで穏やかな会話は続いて行った。 救いは月の彼方から 終幕 あとがき 其の一 今更ですが志貴の周りの女性は規格外の者たちばかりですね。『真祖の姫君』に『第七司祭』を手玉に取るとは何者ですか(笑) 他にも多々常識外の人たちがいますし、何気に『空の境界』と既に関わりを持っていることにしています。そのエピソードを書くのも面白そうなのですが、まあ時間があるときに考えてみますか。 凛ならすぐに士郎たちの下に行くかな? と思ったりしたのですが、その前に『魔術師』として見逃せない対象が居ますから、感情を留めてシエルたちの相手をしています。 志貴の提案に対して素直に信じすぎてしまった感があり、違和感を持ってしまったかもしれません。けれど、こんな対応もするかな。と私は書きました。 其の二 今までが行動を追うだけの淡々とした雰囲気があった為に、心情描写をこれでもか! と言う感じで埋めてみました。 風景描写と心情描写の割合と配置場所、展開と描写技術は書けば上達するのですかねー。新書を読んだりして、身に付くといいなと思ってます。 志貴とライダーの一騎打ちですが、どうでしょうか。 凛とライダーは周りに似ている奴がいる、だけでは志貴の提案を信じきることが出来ません。だからライダーが志貴にタイマンを挑んだのです。少ないやりとりで納得してしまいましたが(笑) 優柔不断な志貴はセイバーを殺してまで桜を愛する士郎に興味を持ったのです。だから今後も縁があると思います。 志貴が境界を越えた先にいる姿は皆さんが知っているあの志貴です。 まあ需要があった場合か思い付いた場合に、士郎とイリヤ復活後のお話をクロスさせて書きたいですね。 それでは |