想い馳せるは純なるモノ
景色が赤く染まっていく。樹の影が伸びてゆき、空には白い月が浮かんでいる。その月もいずれ金色の、本来の色彩に戻り、辺りは後少しで昏くなり始める。夕暮れとは、なんて短い刻なんだろう。―――この悲しい気分に合っているのに。 公園には少女が一人、ベンチに座っている。髪を後ろで二つに束ね。大きなくりくりした眼。小さな鼻。淡く桜色の唇。赤みがさす頬。少女を著すなら綺麗と云うより可愛いと云うほうが合っているだろう。 ベンチにはランドセルが置いてあり、小学生だと解る。 服装は立襟、斜め前打合わせ、筒袖、裾スリットが足首から膝上まで切り込まれている。俗に言う―――チャイナ服である。 今時、昔も、この服装をしている者は見かけないが、少女には似合っていた。服に合わせたのではなく、服が彼女に合ったのだろう。 「―――お母さんが心配するから、もう帰よう」 少女はそう呟くとランドセルを手に取り公園を出る。 世間では猟奇殺人事件と云う、人の血が吸われていたと思われる、と、ニュースで流れ、血液が抜かれ殺されると云う事件が騒がれている。 心配性の母親はいつもより帰りが遅い少女を案じているだろう。寄り道は危ないから早く帰って来なさいと云っていた。 だけど、今日は家に帰るのを躊躇ってしまう。昨日、手紙が届いていたから―――お兄ちゃんは居ない。 手紙はお兄ちゃんの召還状であった。唐突に、しかも簡潔に戻って来てくださいと云う内容の文章が書かれていた。 遠野家の当主が亡くなったことが関係しているのだろうか。少女には詳しいことは伝わっていない。 お兄ちゃんが居なくなってしまうと聞いたときは、自分の部屋に戻って沢山泣いた。悲しくって理不尽で。今思えばお母さんも涙ぐんでいた気がする。家族が一人離れてしまうのは―――厭だ。 遠野家の分家である有間家では、その話に意見することができないそうだ。お兄ちゃんの意志次第で物事が決まるのである。 お兄ちゃんは事故の後、本家の事情で有間家、すなわち、少女の家に越してきた。 お兄ちゃんは優しい。寝ているときは彫刻のような整った貌立ちをしていて、いつも笑っている。 そして、時折見せるこっちの方が壊れてしまいそうな鋭い眼を見つめると、たまたらなく快感だった。 頬が上気し、心臓の音が聞こえ、いつまでも見つめていたい。話も沢山したいんだけど、恥ずかしくて言葉が出ない―――初恋の人。 そのお兄ちゃんが今日、行ってしまった。もう会えないと云うことじゃないけれど、一緒にいる時間が極端に減ってしまうのだ。 そう考えているといつのまにか辺りは昏くなっていた。月は輝き、夜の香りがする。 少女の家が見えてきた、周りの家より少し大きい和風の、お父さんとお母さんが住んでいて、お兄ちゃんがもう―――居ない家。 俯いたまま門を潜る。 「おかえり、都子ちゃん」 声がした。都子を玄関の前で出迎えたのは少年。さらさらの黒髪。黒いフレームの眼鏡。黒色の瞳。口許は綻びている。学校から帰ったばかりなのか、制服を着ている―――居なくなった筈のお兄ちゃん。 「―――お兄ちゃん?」 都子の口から自然に零れた。 「遅くなってたから、迎えに行こうと思ってたとこだよ」 少年は笑みを浮かべたまま近付いてきた。 「(遠野の家に戻ったんじゃなかったの?)」 都子は緊張して巧く喋れない。伝えたい気持ちは沢山あるんだけど、言葉として発せない。 「おかえり」 お兄ちゃんは頭を撫でてくれた。居なくなると思ったお兄ちゃんが有間に、私たちの家に残ってくれた。―――嬉しい。 そう思うと都子は自然と『いつも』通り、重心を落とし、踵を上げ、足場を確認し、踏み込み―――抱きついた。 ドスッ 鈍い音と共に抱きつか(タックルさ)れた少年はよろける。いつも以上に強力であった。 「(た、ただいま)」 「―――うん。啓子さんがご飯作って待ってるから、家に入よう」 都子は頷く。けれど抱きついたまま離れない。少年は苦笑し、ぶら下げ乍ら戸を開ける。 「都子、おかえり」 家に入ると妙齢の女性が立っていた。長く伸ばした黒髪を後ろで束ね。大きな眼。長い睫。小さな鼻。桜色の唇。黒いエプロンをしている。 「ただいま、お母さん。―――そう、お兄ちゃんが!」 「ええ、志貴は残ってくれたわよ。私も驚いたわ。チャイムが鳴ったから出たら、志貴が居るんですもの」 啓子は微笑む。都子はそれを聞くと更に強く、志貴を抱き締める力が増える。 「都子、そろそろ離してあげなさい。志貴が苦しそうよ」 啓子は微笑みながらそう云うと食卓の方へ行った。 都子は慌てて手を離す。 「(ごめんなさい。お兄ちゃん)」 けれど、やはり声は出ず、見つめるだけである。 「じゃあ、手を洗ってから行こうか」 志貴がそう云うと都子はコクッと頷く。こう云うやり取りにも、長年一緒に居るから慣れたものだった。 その後は夕御飯を食べ、都子の父、文臣が帰って来て、志貴が居るのを驚き嬉んだと云う話があるが割合させて戴くとする。 「残って善かったな」 志貴はそう呟くと窓際に椅子を引き、月が見える位置まで移動する。 食事はいつもよりも楽しいものだった。自然と笑みが零れ、話が弾んだ。都子ちゃんはいつも通りだったけど、表情は幸せそうだった。 ―――ドクンッ 心臓の音が高まる。ドクドクと血液が循環されるのが解る。壊れそうなぐらい心臓が脈打ち、脊髄の代わりに氷水を流し込まれた感じがする。 窓から外を眺める。そこには黒いコートの男が歩いていた。白い髪に―――朱い眼。 視界から男が消えても心臓は強く脈打ち、しだいに収まった。 「―――なんだ、あいつは」 今まで忘れてたかのように躰が震える。生きてきた中であんな奴見たことない。 「どうしたんだろ、俺―――もう、寝よ」 志貴は椅子を片付け、布団に這入る。 ―――恐怖だけじゃない。たまらなく興奮した。―――朱い眼。 志貴の意識は闇に沈んだ。 朝日が窓から差し込み、都子は眩しさに眼を細め乍ら洗面所へ行く。姿はパジャマのままで貌を洗うと幾分すっきりし、眼が覚めた。 パジャマは白の生地に、複数縦に蒼色の細線が入り、デフホォルメされた熊が胸元にワンポイントとして刺繍されている。 「都子、志貴を起こしてきて」 水音が聞こえたのか、啓子が台所から声を上げる。 「ふぁ〜い」 絵 双葉 眼は覚めたと思われたが、実際は未だ夢見心地である。眼を擦り乍ら、けれど、確りとした足取りで進むと志貴の部屋の扉を引いた。 「(お兄ちゃん、朝だよ〜)」 声を出してないのだから、彫刻のように眠る志貴が起きる筈がないのである。 都子は何度もお兄ちゃん起きて、と思ったが、全然起きないので。―――見つめるだけで当然であるが。仕方なく『いつも』通りに、椅子を引き、上って、机の上にも上る。 矢張り寝ぼけ乍ら、都子は軽やかに飛んだ。狙いは勿論、布団を被っている志貴の上。両手を広げ乍ら志貴の腹の辺りへ胸から。 ドムッ 「グハッ」 志貴の呻き声が上がる。都子は決して重くない。幼いながらも、通信教育と図書館、本家の書庫から送って貰った書物から『太極拳』を研究し、クンフーを重ね、立派な『闘士』になった業なのである。自然と体重移動をし、最も効く体勢をとり、最も効く位置へ落ちるのである。 「(お兄ちゃん、起きた?)」 志貴は枕元に手をやり、眼鏡を掛ける。 「―――お、おはよ都子ちゃん。いつもありがと」 志貴は未だ響く腹の痛みを堪え乍ら、それでも確りと挨拶と礼をする。 都子はそれに頷くとすっと引き、部屋を出ていく。 「もう少し、柔らかい起こし方のほうが嬉しいんだけどな」 志貴はそう云うと苦笑する。『いつも』通りの朝を迎えられたからである。 志貴が遠野の屋敷に戻らなかったのには理由がある。孤児院から遠野家に引き取られ二年暮らし、交通事故にあった。実を云うと、交通事故以前の記憶は曖昧になっているのである。孤児院の名前は思い出せない。遠野の暮らしは記憶に欠陥がある気がする。何かが足りないのである。 その後、今の高二になるまで有間の家に大変世話になった。まるで実の子のように、そして、この生活の『記憶』は自信を持って『俺』だと解る。 遠野の人を凡て忘れた訳ではない。いつも後ろをついてきた秋葉。一緒に遊んだ明るい娘。窓際に居たリボンをくれた少女。 有間の家族には遠慮して、一線引いた暮らしをしていたのは確かである。長期休暇には悪友の有彦の家に厄介になったり、学校に残ったりもした。 だけどこの頃、暫く自分の中で『家族』だと、境界が薄らいできたのを感じている。 遠野に心残りはある。しかし、それ以上に『家族』を大切にしたいのだ。 それが、彼、有間志貴が残った理由である。 朝食を食べ終え、学校へ行こうと中身が薄い鞄を持って玄関へ迎ったときに、チャイムがなった。志貴の後ろには、鮮やかな刺繍が施されている赤いチャイナ服を着た、ランドセルを背負った都子がついている。 志貴はこんな早い時間になんだろうかと思い乍ら戸を開けた。 そこには今時珍しい和服を着た少女。差し込んだ陽の光を反射し、琥珀色に輝く宝石のような眼。艶のある赤い髪。形の善い唇。和服は着こなして見える。綺麗な少女である。 「おはようございます。遠野の使いの者です」 少女は頭を下げる。 「あ、おはようございます」 志貴は、ある程度遠野の誰かが来ると思い論理武装していたが、朝早く、急に来たので戸惑ってしまった。 「―――志貴さん、ですか?」 「はい。そうです」 「――― 」 志貴は小さく呟く。少女には聞き取れない程小さな声。 「あの!俺は―――」 「はい。有間に残った釈明ですねー。大丈夫ですよ。秋葉様には私が説得中ですから。無理やり拉致ってもいけませんからねー」 「―――秋葉」 志貴はそう呟いたが、少女の後の言葉は聞こえなかったらしい。 都子が不安げな表情で志貴の袖を掴む。 「あら、善いチャイナ服ですね。都子さまのですか?善い意匠の一品です」 少女は都子を見るとコロコロ笑みを浮かべる。都子のことは有間家の家庭事情から容易に解ったらしい。 「あの、どうしたんですか?遠野の使いって」 「実はですね。幹久様の形見を持ってきたんですよ」 そう云うと、少女は桐箱を取り出した。 「親父の―――」 「どうぞ、志貴様」 志貴は桐箱を受け取るとそれを見つめる。ふと、貌を上げると少女と都子の視線がじーーっと桐箱に集まっていた。 「開けた方が善いのかな?」 都子はコクッと頷く。 「いえ、私は見てみたいなんて云ってないですよー」 余りにさっさと開けて下さいと云う二人の雰囲気に、志貴は桐箱を開ける。 「―――棒?」 中に入っていたのは黒い30cm程の棒である。 「違いますよ。志貴様、これは」 そう云うと、少女は志貴から棒を手に取り。 パチンッ 棒の先から美しい純白の刃が現れた。 「飛び出しナイフってあるでしょう。ここにボタンが付いてましたよ」 少女は志貴にナイフを返す。 志貴はそれを手に取り、刃を見つめる。 柄は使い込まれた感じがあるが、血の跡、油の跡が全くない純白の刃には自分の貌が映る。―――綺麗だ。これは楽に 品物。 「あっ、銘でしょうか?彫ってありますよ―――七ツ夜」 『えっ』 志貴と都子の二人から声が零れる。志貴はナイフに見惚れ、都子は志貴の眼に見惚れていたのだ。 「―――七ツ夜」 志貴が呟く。 「形見にナイフなんて珍しいですね〜」 「―――そうだね。まあ貰える物は貰っておくか」 志貴は刃を仕舞うとナイフをポケットに入れる。 「そう云えば、志貴様、都子さまは時間よろしいんですか?」 『あっ』 志貴と都子はお互いに視線を合わせる。 『いってきます』 二人は同時に駆け出した。志貴だけが立ち止まり、振り返る。 「また会いましょう、琥珀さん。それと今度から様付けは辞めて貰ったほうが嬉しいです」 志貴は笑みを浮かべると身を翻し、門を潜り、出て行く。 「―――えっ」 後には様子を見ていた啓子と呆けた少女が残っていた。 都子は走っていた。学校を早退し、ランドセルを学校に置いたまま、雨の中を傘をささずにである。 理由は学校の授業で寝てしまうと云う、恥ずかしいことだが、志貴が有間に残ってくれて嬉しくて、昨夜寝れなかったのだから仕方ない。 問題はそこではない―――。 ―――酷く厭な夢を見た。 夢の内容は覚えていないけれど、起きたとき手足が震え、寒気がする等、躰が夢を覚えていた。そして今も―――厭な予感がする。 足は勝手に進んで行く。遠野家には『人にあらざるモノ』の血が混ざっている。本家に連なる有間家にも薄いが、『忌むべき血』が流れていると母から聞いた。この予感がその『血』によって得られる感性だとしても、何か起こるのなら防ぎたい。走る目的地は公園。理由は解らない。けれど、何かがあることは確かである。 都子は公園に着いた。異臭がする。何の匂いかは解らない。公園内をゆっくり歩くと、少年が噴水の下に倒れている―――お兄ちゃんだ。 意識しないうちから走り出しており、すぐに志貴の許に着いた。 志貴は眼鏡を外しており、制服は濡れている。血だ。匂いは、血の匂いだった。服は朱く汚れ、酸味の効いた臭いもする。嘔吐物特有の臭いで、志貴の服から漂っている。志貴が吐いたのだろう。 視線をわざと外していた志貴の右手には、今朝貰っていたナイフが握られている。ナイフの刃は―――朱く穢れていた。 都子にはそんなことは関係ない。寝ているときは、いつも彫刻のように整っている志貴の貌が苦しそうに歪んでいるのだ。 助ける理由は志貴が倒れているだけで十分なのに、この表情では助けない筈がない。 都子は志貴を立たせ、腕を掴んで背に背負う。重い。そして、血の匂いと酸味の匂いがする。服に匂いが移るかもしれないが、そんなこと都子の頭には入っていなかった。何があったかは解らないない、けど―――。 ―――助ける。 都子は背負い、志貴の足を引きずり乍ら公園の出口に向かった。 「あれ、都子さまに―――志貴さん」 そこには自前の買い物袋を提げ、傘をさしている琥珀がいた。 「朝の―――」 「琥珀ですよ。どうしたんですか?」 琥珀が近づいて来る。都子は後ろに下がろうとしたけれど、志貴の足が支えて下がれない。 「―――志貴さん」 琥珀は志貴の様子を見て目を丸くするが、すぐに都子に向く。 「何があったんですか?」 「―――解らない」 「遠野の屋敷に運んだ方が良さそうですね」 都子は首を横に振る。そして、琥珀を睨む。 「駄目ですか。なら有間の家に?」 都子は頷く。 「じゃあ私も手伝いますよ」 琥珀はそう云うと、志貴の右手からナイフを外し、血を『祓い』、懐にしまう。 そして、右肩を支え、自然と都子が左肩を支える形になった。 都子は有彦から受け取った鞄を琥珀に渡す。 志貴はあの後、有間家に運ばれ、啓子には琥珀が説明し、布で丹念に躰を拭かれ、着替えさせられ、布団を掛けられた。 そしたら人が来て、都子が出たら志貴の鞄を持った有彦だった。有彦は。 「有間の妹か、どうだ?有間の様子は」 都子は首を横に振った。 「―――そうか、なら有間に養生しろよと伝えてくれ」 そう云い乍ら都子に鞄を渡す。 「解った」 「じゃあな」 と云うことで。 閑話休題。 「ありがとうございます。都子ちゃんは志貴さんの看病をしていて下さいね」 琥珀は鞄を机の上に置く。ちなみに都子から、さま付けは辞めてと云われたので、ちゃん付けになっている。 鞄を開け、既に物色した引き出しへとそれらしい処に入れてゆく。 最後の一冊を取ると、琥珀の手が止まった。 ゆっくりと本を机に置き、鞄の底にある物を手に取り、眼線辺りまで持ってゆく。手に取ったのは―――。 ―――白いリボン。 「あれ、琥珀さん泣いてるの?」 確かになぜか涙が頬を伝い、止まらない。 「そのリボンはね、お兄ちゃんの『大切なもの』なんだって、昔、ある人から貰って必ず返す約束なんだよ」 「―――そう」 「大丈夫?琥珀さんも横になったほうが善い?」 都子は琥珀に尋く。しかし、琥珀は生返事を返すのみである。 琥珀はリボンを元の位置に戻し、鞄を机の横に掛ける。そして、表情を一変させ笑顔になる。 「あはー、そろそろ私帰りますね。都子ちゃん、志貴さんの看病を頑張って下さい」 そう云うと、笑顔のまま、ふらつき乍ら志貴の部屋を出ていった。 「大丈夫かな〜」 都子は小首を小さく傾げて呟く。 「よし、お兄ちゃんの看病頑張ろう」 絵 双葉 しかし、胸元で小さなガッツポーズを作ると、すぐに最も今やるべきことに取り掛かった。 混濁の海から意識が浮上する。明かりの眩しい中、眼を開けると。 「―――都子ちゃん?」 志貴の視界に移ったのは、布団の隣で正座をしている都子が映った。 「お兄ちゃん!」 そう云うと、都子は抱きついた。しかし、『いつも』の勢いは体勢から難しいらしく、柔らかく志貴の胸元にしがみつく。 「善かった、眼が覚めて、心配したんだよ」 無口な―――と思われている―――都子が、自分の心配をし、更に看病までしてくれたらしく、志貴は嬉しく思い都子の頭を優しく撫でる。 「ありがとう」 志貴はそう云うと倒れる前に何があったかを、ふいに思い出す。 俺は、人を―――殺した。 志貴の撫でていた手が止まる。 「都子ちゃん、俺の服は」 ―――朱く汚れている筈。 都子は貌を上げ、その貌が若干蒼白くなって見える。 ―――ああ、本当なんだ。 「都子ちゃん。文臣さんと啓子さんを呼んで来て貰えるかな」 志貴の言葉に都子は小さく頷く。立ち上がり、部屋を出ていった。 ―――とんでもない、迷惑を掛けてしまった。ここには、もう居られなくなるのかな。 志貴は起き上がり、布団の中で座り乍ら右手を見つめる。 ―――有間に残る決心をしてからすぐに、俺は。 ふと、視線が机に向かう。そこにあるのは―――七ツ夜。 ―――否。有間に残らずとも。やり終わった後に快感を感じた俺は、『彼岸』に行ってしまったのか。 自分で境界を意識できるならば、まだ『彼岸』に行ったことにはならない。 人の気配が近付いてきた。すっと扉が引かれる。 『―――志貴』 そこには都子ちゃんと、心配そうな表情の文臣と啓子が居た。 三人は志貴の布団の横に座る。表情からは志貴を『忌々しいモノ』と捉える風には見えず、そこまで心配掛けてしまった自分に恥じ、その信頼を裏切ってしまったのを思うと胸が痛む。 実子でもなく、『殺人鬼』かもしれないのに、そんな志貴を心配してくれている。 「文臣さん、啓子さん。俺は、人を―――殺してしまった」 志貴の言葉に二人は息を飲む。予想されていた言葉だけれど、実際に云われると胸に何か来るモノがある。 「―――志貴」 「―――そうか」 啓子と文臣から同時に声が零れた。 「俺は、ここには、もう―――居られません」 志貴がそう云うと、都子は動き、『いつも』のタックルをする。 ドスッ 「厭だよ!折角お兄ちゃんが残ってくれたのに、居なくなるなんて」 いつもなら言葉として云えないのに、感情の高ぶりによって緊張や恥ずかしさとか忘れて、想いを伝える。 「―――都子ちゃん」 「お兄ちゃんが遠野に行かないでくれたんだよ。私泣いたんだから、手紙が届いた日に。大好きなお兄ちゃんが居なくなってしまうと思って」 言葉は止まらない。 「離れないでよ。どこにも行かないで!お兄ちゃんの『居場所』はここなんでしょ」 都子は泣き乍ら志貴にしがみつく。 「志貴、都子の云う通りよ。居られないなんて云わないで。あなたは、私たちの『家族』なんですから」 「―――啓子さん」 「罪は償え、しかし私たちは志貴を憎むことは決してしない。終わった後に『戻って来い』」 「―――文臣さん」 実子でもないのに、人を殺し、家名を汚した者は憎まれ、疎まわれるものだろう。 しかし、この『家族』にとって志貴は、欠けてはいけない―――『大切な人』になっているのだ。 志貴は涙ぐむ。 「―――ありがとう、ございます」 「明日一日は学校に行きなさい。乾くんには、何か云うことがきっとあるでしょう。云わなくてもいいから。その後は―――」 啓子は言葉を濁す。 「はい。―――警察に行きます」 「じゃあ、今日はもう寝るかな」 文臣は立ち上がり笑みを浮かべる。 「都子もそろそろ部屋に戻りなさい」 啓子は都子の肩を掴み緩やかに揺らす。 「―――はい」 都子は志貴の胸元から貌を上げ、涙ぐんだ貌を志貴に向ける。 「お兄ちゃん、おやすみなさい」 「おやすみ。啓子さん、文臣さんもおやすみなさい」 都子は志貴から離れ、三人は部屋を出ていく。志貴の部屋に残ったのは、抱きつかれた都子の洗った髪の、シャンプーとリンスの香り。 「―――ありがとう」 ―――『家族』って善いな 志貴はそう呟くと横になり、すぐに眠気がやってきた。躰は未だに疲れているらしい。 都子は再び走っていた。心臓が強く脈打ち、手は震え、それでも足は動いている。厭な予感は一昨日よりも強い。 昨日、志貴は学校に行ってから帰って来なかった。家族皆が心配し、都子は志貴が有間家に残ってくれたときの逆様の気持ちで眠れぬ夜を過ごした。 その今朝に志貴から電話があった。啓子が取り、内容は、殺したと思った人が生きていた。責任をとってくる。心配はしないでくれと云う話だったと云う。 都子には責任とは何の責任かは解らない。殺していないのだから怪我をさせた責任だろうか。 だけど、都子にとって責任とか関係ない。部屋に居て、空が赤らみ、昏くなり、夜に近付くにつれて―――厭な予感は増すのだ。 倒れていた志貴を見つけたときと、比べものにならない程の―――厭な予感。 空の変化を見る度に、手足が震え、心臓が強く脈打ち、血液がどくどく循環し、脊髄の代わりに氷水を流し込まれたようになり、食欲もなかった。 静かな夕食を過ごし、窓際で外を眺めていたら、いつの間にか真夜中の刻になっていた。丑三つ時よりは早い。けれど、両親は既に寝ている。 その時、ふと町の景色から上を眺めると、金色の月が浮かんでいた。凍る様な寒気が躰中を走る。一瞬、月が朱や蒼にも見えた気がした。 そしたら、居ても立っても居られなくなり、両親に気付かれないように家を抜け、外を走っていた。 足が向かっているのは公園。なぜ公園なのかは、矢張り解らない。一時は悲しい気分を少しは癒してくれた公園だけど、今は『忌むべき地』のように感じる。 公園内に入る。噴水がある中央への樹が並べられたアスファルトを走る。中央へ入るため、曲がると―――寒気。 都子は地を蹴り、右に滑り、踏み止まる。対象を捉える。 ―――犬? そこには、黒く艶のある毛。それに隠れるのは強靱な筋肉。牙は頭など軽く噛み砕かれてしまうような牙。だらんと口から下がった舌。不定期な息づかい。凶がった眼。 狂犬が飛び掛かってきた。距離は初撃を避けてから離れた5m。狂犬は地を踏み込み、一歩でその牙は都子を捉えるだろう。 ぎりぎりに避けたら爪で引き裂かれる。よって都子は、少し前に出て横に逸れ、狂犬の背骨に向かって、地を踏み込み、丹田に力を入れ、チャイナ服のスリットから伸びた高く上げた右足を、遠心力を込めて打ち下ろす。 ドコッ 鈍い音が聞こえた。背骨が折れる厭な音だ。狂犬は地に伏せ、未だ起き上がろうとする。 都子は軸足を変えて打ち上げる。飛んだ狂犬は今度は起き上がろうとはしない。 ―――ハ、アァ 息が上がる。あんな恐ろしいモノは見たことない。躰が震える。 遠野に連なる者にとって、襲ってきたモノは反抗しないまで痛めつけると云う規則があった。それは今は廃れたものだが、血が、自分にとって危険なモノを告げる。 倒れるにはまだ早い。厭な予感はまだ続いている。 「ほぅ、小娘。普通の人ではないな。『魔』の気配がする―――『混血』か」 善く通る男の声が届いた。都子は声の方へ貌を向ける。 そこには色素の抜けた髪。朱い眼。片眼を閉じ。口許は閉まっている。黒いコートの前を開け、その奥は暗く昏く闇く、混沌としていた。半身がない。 ―――化け物だ。 都子は戦慄した。あれに触れてはいけない。自分より上位の存在だ。『闘士』としての感覚で解る。 ふいに知った気配がする。優しい、そして、時折刃物のように鋭い志貴のモノ。辺りに視線を這わせても志貴は見つからない。異様な黒い塊が二つ見えた。一つはこの『化けモノ』より『化けモノ』の気配。もう一つは―――志貴の気配。 「お兄ちゃん!!」 精一杯、声を上げた。 「あの人間の縁者か、まあいい。『混血』の躰。我が肉にしてやろう」 男はそう呟く。 志貴にはその会話が聞こえていた。躰中を黒い塊に覆われて、生き乍らに肉を啄まれている。 都子ちゃんがどうして来たかは解らない。けれど、あいつはなんて云った。―――都子ちゃんを殺す?あいつが―――巫山戯るな。俺の『大切な人』を殺すなど吐き気がする。 なら―――お前は死ね。 塊が弾けた。志貴を覆っていた黒い塊は液体となり、地に打ち撒かれる。 「なっ、ありえん。我が『創世の土』を破るなど、『真祖』さえ封じるモノを」 男は狼狽する。 ―――煩い。 男の胸元から犬や虎、鹿などが志貴に向かって行き、凡て銀線が閃く度に、液体へと還り『停止』する。即ち『死』である。 「死した後、我に還る筈の因子が戻らん。貴様、何をした」 ―――お前こそ、何をしようとした。 象や角を生やした生きモノ、蟹の鋏に躰は不可解な程でかい。神話上のモノや理解できない生きモノが位置を変えない志貴に飛び掛かってくる。しかし、志貴は一つ識ることができる。眼鏡を外した蒼眼に視えるのは―――『死』 都子の眼には志貴しか映っていない。さっきまでの恐怖を忘れ、その自分が壊れてしまいそうな蒼眼を見つめている。 頬が上気し、興奮から心臓の音が高まり、下半身が疼く。 ―――ハ、アァ。 さっきの息とは全く逆様の、喘ぎ声が零れる。 ―――綺麗、な眼。 都子は志貴の初めて見る蒼眼に捕らわれていた。 志貴が動く。腰を落とし、七ツ夜を逆手に持ち変える。地を駆け、『静』と『動』を組み合わせ、蜘蛛の如き動きで躍り出る。来るモノは悉く切り捨て、それを足場とし、三次元空間を飛び回る。 瞬間に男に近づき、七ツ夜を振るう。しくじった。男が僅かに躰をずらす、仕方ない『極死点』から、右腕の『死線』へ軌道を変える。通したと同時に後ろへ飛ぶ。 「馬鹿な、再生しないだと」 男は後ずさる、しかし、普通の人間に対し逃げると云うことは、彼の誇りによってできない。 「―――クスッ」 女性の、『化けモノ』より『化けモノ』の、真なる『魔』の笑みが零れた。 「愚かしいわ、ネロ・カオス。否。フォアブロ・ロアイン」 今まで黒い塊に捕らわれていた彼女は、ネロの余裕が失くなり『創世の土』を躰に戻したと同時に戒めが外されたのである。 闇の中でも栄える金色の髪。色素の薄い肌膚。血の色より緋い朱い双眼。澄ました高い鼻。形の善い紅い唇。貌の部品が黄金率によって並べられている。磁器人形のような美しさ。純白の上着に蒼のロングスカート。上着に隠された豊満な胸の膨らみ。すらりと伸びた両腕は組まれ。体型さえも悪魔の比率。黄金率によって整えられている。絶世の美女。 「―――姫君」 ネロが呟き、彼女を睨む。 姫君と呼ばれる由縁は、『世界』の『抑止力』によって自然に生まれる吸血鬼。『真祖』の王族『ブリュンスタッド』が造りし、『世界』から純に抽出された『真祖』アルクェイド・ブリュッンスタッドであるからだ。 「彼、一度私のこと殺してるのよ」 アルクェイドは可笑しそうに口許を綻ばす。 「真逆!?殺しても死なない『化けモノ』より『化けモノ』の姫君を」 ネロはアルクェイドの言葉に驚嘆する。 「そうか、人間。―――本気で殺す」 ネロがそう云うと胸元からナニか広がり、裏返り、ネロを包む。凶悪な貌つきになったネロの躰は三倍に大きくなる。 志貴はネロとアルクェイドの会話の最中に、ネロを殺せないことはなかった。隙だらけでいつでも殺せる。しかし、志貴が動かなかったのには訳がある。見惚れていたのだ。アルクェイドに、そう、絶対なる『魔』を狩れる刻を想い、心臓が更に強く高鳴った。ネロなど余興にすぎない。更に強い『魔』を殺れると思うと快感に包まれる。 心臓が脈打ち、血液が躰中を巡り、どくどくと打ち鳴らす。心臓は興奮を表すが、頭と躰は冷静になっていく。『死』が視えるために―――見えないモノを理解しようと―――起こる頭痛すら心地よく感じる。眼球が押され、眼と脳がくっつきそうだ。 頭が痛い。頭痛がする。頭が痛い。頭痛がする。頭が痛い。頭痛がする。頭が痛い。頭痛がする。頭が痛い。頭痛がする。頭が痛い。頭痛がする。頭が痛い。頭痛がする。頭が痛い。頭痛がする。頭が痛い。頭痛がする。 それすら―――。 ―――快い。 ネロが志貴に向かってくる。信じられない速さだ。生きモノとは思えない。しかし、―――それだけだ。 ネロの移動と左腕の振りに風切り音が衝撃となって響いている。ネロの右腕はない、志貴に『殺さ』れたら『概念』すら無くなる訳だから、元から無かったと云う認識になって再生などできないのである。 志貴はネロが突き出した左腕を避け、軸足を判断し射程外に移動し、七ツ夜をネロの胸の、ネロが内包する『世界』の『死点』、『極死点』に滑らせる。 ―――実にあっけない。ネロの躰は崩れてゆく。志貴は既に興味はない。アルクェイドを視界の端に見据え、奇襲を掛ける。 振った七ツ夜をアルクェイドは後ろに飛んでカわす。 「ちょっ、ちょっと志貴どうしたの!?」 アルクェイドの慌てた声が聞こえる。―――関係ない。 振るい。 薙。 突く。 「初めて会ったときと同じ衝動?―――。―――志貴は殺したくないよ」 アルクェイドの呟きが都子に聞こえる。 ボトッ 「痛っ。志貴、正気に戻って!」 アルクェイドの右腕が落ちる。 都子は駆け出す。どこを飛び回っているか速すぎて解らないけど、アルクェイドの志貴を説得させてる声のほうへ走る。 「お兄ちゃん!金髪のお姉ちゃんは戦う気ないよ!」 都子が叫ぶ。その時アルクェイドにはその光景がコマ送りに見えた。 志貴はアルクェイドを見たまま後ろに下がってゆく―――。 ―――邪魔だ。 一閃。 都子のチャイナ服が逆袈裟に裂かれ、鮮血が舞う。 アルクェイドには信じられなかった。志貴がいくら『殺人鬼』だったとしても、都子が『混血』で『魔』に属すると云っても、あんなに沢山志貴が話題にしていた妹を―――都子を殺したのだ。 ドサッ 「―――えっ」 志貴の声が零れた。 視線を地面に這わせる。 そこには―――。 善く知った形のものが横たわっていた。 善く見慣れた黒に近い灰色の塊である。 ―――何? 布に覆われた長いものが二本、アスファルトの上ににゅう、と伸びている。脚だ。裾のスリットは捲れ上り覗く脚は艶かしい。 ―――これは何だ? 志貴は視線を上げる。腰から胸。チャイナ服が裂かれており、朱く染まっている。丸みを帯びた優しい肩の線。それに続く細い頸は、 朱く染まっている。 そして。 「都子ちゃん」 都子ちゃんが死んでいる。 「厭」 都子ちゃんの屍体だった。 「厭だ」 顔も朱く染まっている。 「厭だ厭だ」 善く善く見ると、尋常じゃない程の血が場を染めている。 「アッ、アァァアアアッ!」 ―――朱い。 ―――赤い。 ―――紅い。 ―――また俺は。 「ァアア、都子ちゃんが―――があ―――」 志貴が叫ぶのと同時にアルクェイド飛んで来た。 都子の状態を見て、志貴の貌に手を添え パアアァァン!! 頬を叩いた。その後、志貴の貌を両手で挟む。 「志貴、妹はまだ死んでないよ」 「―――えっ」 「私が救ってあげる」 アルクェイドはそう云うと笑みを浮かべる。出血は酷いが、躰は『停止』していない。志貴は無意識に『死線』をずらしていたのだろう。 「―――助、かる」 「うん、志貴の怪我も治さなきゃね」 アルクェイドはそう云うと黒い液体を手に取り、それはアルクェイドの中に染み込んでゆく。 「さすが混沌ね。原初の海に限りなく近いわ。ネロが死んでもまだ蘇生領域にいるのが使える」 志貴にはアルクェイドの声が霞れてきた。 「一回私の中で蘇生して、精製してと」 ひどく眠い。 「志貴?」 聞こえない。 「お〜い。志貴、聞こえてる?治療したら一応部屋には送ってくからね」 意識が―――沈む。 小鳥のサエずりが聞こえる。躰は全身が灼けるように痛い。瞼を開ける。ここは―――俺の部屋。 ―――アルクェイドが運んでくれたのか。 ―――都子ちゃん! 志貴の意識が急に覚醒する。目が覚めた。それに伴い自分の過ちに手が震える。 「―――俺は」 ふと気配がして横を向く。 「(おはよう)」 じーと都子が見つめていた。布団の横に立って、中腰で眼線を志貴に合わせている。 「―――都子ちゃん?」 都子はコクッと頷く。 ガバッ 「ひゃっ!」 志貴は痛みを忘れ抱き締める。都子の悲鳴が小さく上がった。 「―――善かった」 志貴は抱き締める力を強める。都子は始め、慌ててジタバタしていたが志貴に任せている。 「ごめんね」 志貴の言葉に都子は貌を上げ、首を横に振る。 「(私が勝手に行ったのが悪かったんだから、謝るのはこっちだよ)」 けど恥ずかしくて声がでない。都子はどうしようかと思ったが、既に抱き付いているから、タックルはできない。 「矢っ張り、俺は―――」 絵 双葉 志貴が凡て云う前に、都子の唇が志貴のに触れた。 都子はすぐに貌を上げ、頬を染め、志貴から離れ部屋を出ていった。 志貴は暫く惚けていたが、頬を掻き。 「―――居てもいいのかな」 そう云うと自然と微笑みを浮かべる。 『日常』が戻って来た気がした。 想い馳せるは純なるモノ 終幕
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