冬空の下

第三章 少女の学校








 二つの弁当箱が居間の食卓の上に置いてある。
 時間は士郎と桜が仕事に出掛ける十分前、志貴と士郎、桜とライダーは其れを囲んで座っている。視線は可愛らしい白色の箱と勇ましい虎柄の箱だ。弁当箱は空ではなく、士郎と桜の手製の弁当料理が詰まっている。学園へ通うイリヤと大河の昼食である。

 珍しいなと士郎は云った。

「藤ねぇならよくあるけど、イリヤが弁当を忘れてくなんて」

「そうですね。イリヤちゃんはしっかりしていますから、忘れ物をすることはなかったけれど、こういうこともあるものなんですね」

 桜は、ライダーの髪をシニョンに結い上げながら言った。長い髪を纏めるのは大変なのだが、既に趣味の域になってしまったので、面倒とは思わない。
 ライダーはされるがままに、ちょこんと座っている。

 居間を通れば、まず忘れられないだろう位置に置いてある、食卓の上の弁当箱は、主に持っていかれる事なく、ぽつんと置いてあった。大河はよく忘れて行く事はあったが、大河が忘れていった弁当箱は、イリヤが登校時に持って行って、飢えた虎が暴れる事はなかったのだが、今回はイリヤも忘れて行ったのである。朝食を食べた後、衛宮邸の私室から居間を通らずに学園へ行ったのなら、忘れて行く事も無きにしもあらずか。其れにしても、イリヤが忘れ物なんて本当に珍しい。

 そのようですねとライダーは云った。

「ところで、イリヤは学食があるそうですから問題ないでしょうが、桜が云っていた、タイガの、士郎の弁当を食べられなかったときの落ち込みようは、酷い有様だったらしいのではないですか」

「藤村先生は、学食でも出前でも、何かを食べれば落ち着くけれど、妙に不安定になったりならなかったりしていましたね。部活は普段よりも厳しい練習になってました」

「――む」

 桜の言葉を聞いて、士郎は腕を組んで弁当箱を見た。

 大河は、士郎手製の大河への弁当が食べられる事なく、朽ちるか誰かに食べられてしまう事を歯痒く思うが故に、暴れるのだと桜は思う。桜は、よく部活で弁当を大河に分けていたものだと思い出した。

「私が車で送るといえども、弁当箱を持って学園に寄って【ワール・ウィンド】へ行くとしたら、桜と士郎は遅刻してしまい――痛ッ、痛いです、サクラ」

「あっ、ごめんなさい、ライダー。でも、急に動いたら駄目でしょう」

 ライダーは髪を押さえて、後ろの桜を眼鏡越しに上目遣いで睨んだ。けれど。
 桜は、一旦謝った後に、めっと指を立てて叱った。

 志貴と士郎は、ライダーには悪いけれど、桜に叱られる光景を見て、可笑しくて母娘の様に感じられ、和やかな気分になった。
 ライダーは、壁に掛けてある時計へ視軸を移し、時間を確認しようとした処、桜はライダーが急に動いた為に手元が滑って、さくとブラシが刺さってしまったのである。

 ライダーが確認した時間は、二人を仕事に送る五分前だった。其れに今日は、ライダーは遠出の予定がある為に、送り迎えの帰りに弁当箱を届ける事は出来ない。身近な物は深山町で大概の物は新都で買えるが、冬木市で買える物は限られている。山と海に囲まれている冬木市で買えなければ、山超えして買い出しに行かなければならないのだ。

 【ワール・ウィンド】に勤める士郎と桜は、仕事が忙しいので未だに運転免許を取得しておらず、ライダーは学園へ通わず仕事をしていなくて、時間を持て余していたから取得したのである。購入した『衛宮家』の車はFIAT500。全長2970mm全幅1320mmという小型車であり、ルパン三世『カリオストロの城』で有名なイタリアの国民車である。ライダーは、余りの可愛さの為に其の小さな車の購入を決意した。士郎と桜に初めてねだって買ってもらった物である。手間が掛かる車だけれども、嬉嬉として世話をしている。

「遅刻をしても、店長さんは笑って許してくれそうですけど、逆にその優しさが迷惑をかけたら悪いと思わせるんですよね」

 士郎さん、どうしますかと桜は云った。
 桜は、士郎が桜へプロポーズした日より、先輩から士郎さんへと呼称が変わった。大河への呼称が藤村先生のままなのは、幾ら年を重ねても先生は先生だったのだし、大河は自分を藤村先生と呼んでくれる人が、家でも学園でも少数なので、変更を余り望んでいなかったからである。

 桜はライダーの髪を結い終え、後は少し調整するのみだ。髪の跳ね具合をアレンジし、出掛ける時間に間に合った。
 ありがとうございますサクラ、とライダーは云った。
 桜は微笑みで返事をした。

「――むむむ」

 士郎の唸り声は、桜とライダーの発言につれて長くなっていく。
 自の弁当が理由で虎が学園で暴れるのは生徒に悪いし、仕事に遅れるのは店長に悪い。

 俺が持って行こうかと志貴は云った。

「志貴?」

 士郎は志貴へ視軸を移した。
 蒼色の和服を着流しで着こなしている志貴は、静観しながら飲んでいたお茶が空になったので、湯呑み茶碗を食卓に置いた。

「俺は一日中暇してるしさ。散歩がてら届けに行くよ」

 そうですかとライダーは応えた。

「シキには留守番を頼もうと思っていたのですが、散歩に出掛けるならば家に鍵を掛けなければなりません。しかし、志貴の分の合鍵はありませんよ」

「けれど志貴さんならば、塀を飛び越えられるんじゃないですか。窓の鍵を一カ所だけ開けて出掛けて下さいね。それなら大丈夫でしょう。それと散歩をするなら、弁当箱を届けるついでに、学校を見学でもしてきたらどうですか。良い暇潰しになると思いますよ。藤村先生がいるので、志貴さんの身元を保証できますから、見学ぐらいなら他の先生たちも何とかなるでしょう」

 和服は目立ってしまうでしょうけど、と桜は言った。

「まあ目立つのは、和服って珍しいから仕方がないか。けど奇異の目を向けられるとしても、いつもの事だからこのままで行くよ」

 志貴は微笑みを浮かべた。



 過去、志貴という人間を構成するのは、遠野志貴だけではなかった。志貴の中に七夜志貴という少年がいたのだ。志貴の平穏が三咲町で終わってから5年が過ぎた。アルクェイドが【千年城】へ戻ってから5年が過ぎた。自の中に、自分ではない自分がいるのに気付いたのは、其の間の事だった。

 遠野志貴は、度重なる戦闘を生き抜くのに、七夜志貴を喰らって生きた。
 志貴は、何故七夜が志貴を主体にして人格を統合したのか知らない。解らない。ただ、自分だけでは今までに死んでいた可能性が高かったと、志貴は思う。生き抜けたのは、七夜志貴という少年のおかげだ。

 聖杯戦争後、志貴は知り合いの人形師である蒼崎橙子に、英霊の腕を対価として、ヒトガタを2体造って貰った事があった。
 そして、橙子の『此方側』の仕事を手伝う人物に、両儀式という女性がいる。式の口調は、使う人は女性よりも男性の方が多い口調をしていた。式は、陽性の識と陰性の式という二重人格のような状態だったが、ある事故で式の代わりに識は死んだのである。式は、識が生きていたのを、識を知る幹也に覚えて貰っていたいが為に、男性よりの口調を使うのだろうと、志貴は橙子から聞いた。

 志貴も同じだ。

 遠野志貴は七夜志貴が生きていた証として、和装の装束を纏う。七夜の血族が生きていた証ではない。七夜志貴という半身が生きていたのを形として示す為に、時代錯誤な服装をする。
 故に、奇異な視線を向けられたとしても、志貴は和服を纏うのだ。



 大丈夫じゃないかと士郎は云った。

「志貴が冬木に来て二週間以上経って、よく散歩してるからか。商店街には、和服で眼鏡の人がいると有名になってたから、学校に行ったとしても受け入れられると思うんだが」

「たしかに、買い物をシキに付き合っていただいた時に、商店街の皆さんと随分と親しそうでした。あの分では、学園の生徒にもシキを知っている者はいるでしょう。目立ちはするでしょうが、追い出されることはないと思います」

「じゃあ渡した後に、暇潰しに見学でもしてくるよ」

 志貴は、食卓の手前の位置に白と虎の弁当箱を寄せて、そう云った。























 抜ける様な蒼空の下、志貴は革張りのトランクケースを手に持って、【穂群原学園】への上り坂を歩いていた。トランクケースには、中身が崩れない様に配置した弁当箱が入っている。学園までの坂には、人は一人もいなかった。時偶、車が通るが、街路樹の下は静けさで満ちている。タイルを編み上げブーツで踏んで歩く。朝の木漏れ日の下の散歩を、志貴は好きだった。



 学園に行くのは今回が初めてではない。【冬木市】に来てから、散歩と称して無許可で入ったことがある。学校という空間が、過去の懐かしい日々を思い起こさせてくれたのだ。思い出といっても、同級生では莫迦をやっていた有彦と、忘れてはいけない、ピンチの時に助けられなかった少女ぐらいしいない。
 しかし。
 志貴の生活を急激に改変したのは、高校生の時だった。【遠野の屋敷】に戻った日から変わった。秋葉に小言を云われたり、翡翠が毎朝起こしてくれたり、琥珀に薬を盛られたり、シエルとカレーを食べたり、レンと一緒に寝たり、シオンと紅茶を飲んだりした。

 そして何より――。
 ――アルクェイドと会えた。

 美しくて我侭でお姫様で、けれど世間知らずで無邪気で元気な奴。志貴は、自分の何十倍も生きているのに、楽しい事を全く知らなかったアルクェイドに、其れを教えてやると約束した。一生をかけて教えてやると決めた。

 しかし、たったの数年で其の約束は果たせなくなった。アルクェイドは、吸血衝動を押さえる為に、【千年城】で眠りについたのだ。ロアを殺した後に、アルクェイドは一度【千年城】へ戻ったが、其の時は帰って来てくれた。だが今回は、あの時よりも綺麗な笑顔で別れを告げられた。笑顔なのに、泣くのを我慢している顔だった。

 ――好きだから吸わない。

 志貴はアルクェイドの言葉を反芻した。ロアの件の時に言われた言葉だ。今では、シオンから聞いて、好意が吸血衝動を強めると知っている。アルクェイドは、日々辛くなって行く衝動を、どの様な想いで堪えていたのだろうか。
 まだ、殺した責任をとりきれていない。もっと楽しい事を教えてやる。命尽きるまで共にいたい。――アルクェイド。



 ふと、志貴は視軸を上へ向けた。一台の自転車が坂の上から降りてくる。乗っているのは、女性だ。虎模様のエプロンみたいな服を着ている。大河だ。大河が凄い勢いで走ってくるが、志貴に気付いたのか、ブレーキを掛けた様だ。しかし止まり切れず、志貴の横を数メートル進んで、きぃと止まった。

「こんなところで、どうしたの?」

 大河は振り返って肩越しに尋いた。

「弁当箱のお届です、藤村さん」

 志貴はトランクケースを掲げてみせた。






















 志貴は自転車を漕いでいた。ハンドルを握り締めてサドルに尻を乗せず、ペダルを一漕ぎ一漕ぎする。ペダルが重い為に、立ち漕ぎをしているのだ。
 世間では、和装が完全に着られなくなったという事はないが、其の格好で自転車に乗る者なんてまずいないだろう。

 そして道は平坦ではない。ましてや下り坂でもない。街路樹の下、山の中腹に建てられている為に坂坂がきついと評判の【穂群原学園】までの上り坂だ。此の坂道がある為に、少し離れた位置に家がある生徒も自転車ではなく、徒歩で通っているらしい。
 帰りは下り坂で楽そうだが、残念な事に此の自転車は借り物らしく、きちんと持ち主の生徒に返さないといけないそうだ。

 志貴はぶつくさ云いたくはないのだが、ペダルが重い。荷物が重い。大きすぎて籠からはみ出して斜めに入っているトランクケースは別に良い。ただ女性だから云うのは悪いのだが、後ろの荷台に乗っている大河が、正直重かった。

「頑張れ〜、志貴君。若者らしく必死に漕ぐのだぁ」

 志貴は弾む掛け声を背中から浴びた。
 大河は尻の後ろの荷台の端を後ろ手で掴み、両足をぷらぷらとさせてバランスをとっていた。

 志貴が漕ぐ自転車の速さは、二人乗りを坂道でするという要領の悪い行為なのだが、平坦な道となんら遜色のないものである。が、大河が揺れる度に体勢を立て直すのがきついのか、ハンドルは強く握り締めれていた。

 志貴と大河が初めて会った時は、アルクェイドとシエル、秋葉と一緒だった。志貴は遠野姓が二人いた為に名前で呼ばれる事になったのである。
 ただ大河は秋葉の事を秋葉ちゃんや秋葉さんとは呼ばず、遠野さんと呼んでいる。士郎が大河に理由を聞いた処、秋葉の雰囲気というかオーラみたいな物が、凛と類似していたそうである。凛を遠坂さんと学園で呼んでいたから今もそう呼んでいるそうだが、秋葉の事は雰囲気によって遠野さんと呼称が決まってしまったらしい。

「――なら、脚を揺らさないで下さい。バランスが、崩れる」

「ふっふっふっ、剣道五段のバランス感覚を舐めるなぁ。これでも、士郎よりバランス感はあるわよ」

 士郎は関係ないし。

「――って、云ってる側から脚を振るな、前後に揺するな」

「うぅぅ。そうだね。志貴君は私の為に頑張ってるんだもんね。楽しいんだけど我慢するよぅ」

 志貴は肩を落とした。
 脚をぷらぷらさせたいなんて子供みたいな事を云わないで欲しい。きこきこと自転車のペダルが更に重くなった気がした。
 其れにしても、大河の性格と容姿は何時までも変わらない。性格は相変わらずで、容姿は20歳の頃から変わらないんじゃないのかと士郎は云っていた。

「ええ、頑張りますとも。藤村さんを遅刻させないように頑張って漕ぎますとも」

「見え隠れする言葉の針がいたいよおぅ」

 大河は横を向いてさらりと涙を流した。坂道の為、景色は斜めだった。



 因に大河が自転車で坂道を下って来た理由は、担当の授業が2時限目からだったので、生徒から自転車を借りて弁当箱を【衛宮邸】まで取りに戻ったそうだ。しかし、弁当箱を忘れたという事に気付いたのが、既に一時限目の半分を過ぎた頃だった。しかしあきらめる事は出来ず、気力全開で学校を飛び出した。外で体育をしていた生徒から自転車を借り、坂道を下り始めた。【衛宮邸】までの道程は楽なのだ。ただ、再び学校へ来る時にある上り坂がきつそうだった。
 だが。
 タイガーふるぱわーは伊達ではなく、勇往邁進で坂道を切り崩すつもりだったらしい。けれども坂道の途中で志貴に会って、中途半端な位置で目的の品を手に入れる事になり、燃え盛っていた弁当への狂気は燻ってしまって、感謝と嬉しさだけが残り、坂道を切り崩すぱわーは不意な目的達成の為に不完全燃焼で鎮火してしまった。ふるぱわーが解けた大河は、か弱い乙女みたいな様であるらしいそうで、坂道がきつくて二時限目までに学園へ戻れられない筈だった。

 よって、志貴が妙案があると云い、こんな現状になったのだ。大河は教師として二人乗りは咎めなければいけないのだが、背に肚は変えられず、志貴の言葉に従った。

 結局、大河は上り坂を自転車でもぐんぐんと進められる事に驚き、其の壮快さと坂道の傾斜を楽しんでいた。



 学園が見えてきた。黒い柵の奥に広葉樹がずらりと植えられ、其の奥には芝生が広がっている。そして校舎が見えた。大きな校舎である。流石私立だ。坂道の傾斜は緩くなり、終いには平坦になった。柵が途切れ、右へ曲がって門を潜る。

「着いたぁ、本当に間に合ったわね」

 大河は腕時計を見てからそう云った。
 志貴は、アスファルトもコンクリートも敷いていない赤褐色の地面の上でブレーキを掛けた。自転車は土の上を滑って、自転車置き場の横にきいと止まった。
 大河は荷台からぽんと降りた。

 志貴も自転車から降りて、かこんと止めた。

「はい」

 大河は笑顔で両手を広げて差し出した。
 志貴は首を傾げたが、ああと呟いた。其れから自転車の籠からトランクケースを取り、ぱたんと開けた。勇ましい虎柄の弁当箱を手渡す。

「ありがとう。これでお昼は士郎のお弁当だよ。それと、志貴くんは本当に見学して行くの」

 大河は小首をこてんと傾げた。
 はいと志貴は答えた。

「特にやることがないですから。不審者にならない程度に学校の中をふらつきます。弁当を渡す為に、イリヤちゃんのクラスにも行きますから、彼女に迷惑がかからないように振る舞わないと」

「そうだね。問題は起きななければ良いけど、きっと志貴君なら大丈夫だよ。私が渡しても良いけど、暇潰しの邪魔はしちゃいけないわね。うんうん、私も士郎の家でお煎餅食べてテレビ見るのを邪魔されたくないわ。判った。学校見学の件はちゃんと云っておくから。じゃあ、お弁当ありがとうねぇ」

 大河は腕をぶんぶんと振り乍昇降口へ走って行った。ぱたぱたと走っていたが、昇降口に入る前に一時限目の授業終了チャイムが鳴り、大河の速さはぐんと増した。
 志貴は其の姿に苦笑した。大河は授業の用意等をしなくてはならないのだろう。

 其れから志貴は来賓入口へ行き、事務員に大河の事を話した。しかし確認やら手続きやらで身動き出来ず、次の休み時間まで来賓室で待たされた。大河が呼ばれ、説明して貰い、晴れて志貴の学校見学は始まった。







第三章 少女の学校 中幕









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