冬空の下

第四章 獣








 今まで樹木は密集して生えていたが、不意に開けた場所に志貴は着いた。俯かせていた傘の端を上げ、その場を仰ぎ見た。既に山は薄暗い。

 ざあざあ。どうどう。

 葉葉を打つ雨音と今や濁流となった小川の音が辺りに響いている。志貴が登って来た道筋には柳が多く生えており、小さな広場の中央であって目の前の川の端には一層大きな修楊(しゅうよう)(そび)えている。
 高さは周囲の樹木を軽く越え、幹の太さは大人三人でも抱え切れぬ程、古木で初冬なのだが青青と葉は茂り、それは見事な枝垂(しだれ)柳であった。こんな場所に柳が生えているとは酷く場違いな気がしたけれど、長い年月を経た樹は、それを上回る雄大さを備えて場に座していた。雨風に吹かれて揺れるしなった枝は、ざわざわと音を起てている。

 志貴は柳の根元の隙間の穴を観た。違和感がある。ズレとも歪みとも表現できるかもしれぬ。
 其処が獣のねぐらと司書から聞いた。暗い穴である。

 二つの大きな点が闇の中でぎらりと光った。すうと揺れる。
 赤いモノが暗い穴から薄暗い(こちら)へごそりと現れた。赤い獣だ。種類は判らぬ。犬のようでもあるし猫のようでもある。体格は大きい。此程大きければ、犬と称するのが莫迦らしくも思えた。獅子よりも大きいだろう。凶悪な大爪を生やした前足と丸太のように太い後ろ足である。毛は赤いのだけれど、ところどころは黒ずんでいる。
 獣は口を歪ませた。
 嗤っている。嘲嗤っている。否、獣は笑わぬ。獣に笑うという概念は存在せぬ。頬を歪ませ口を開け、その行為は笑うと云うのとは違う。

 獣が口を開けて牙を剥き出しにしてどのような感情を浮かべたのか、志貴には解らぬ、想像できぬ。人を喰う獣の感情など想像したくもない。

 人を喰う獣は、志貴に彼奴を思い出させる。黒い黒い混濁した黒さ、黒き混沌の二つ名を持つバケモノを思い出させる。ネロ・カオス。死徒二十七祖の十位。六百六十六素のケモノの因子を肉体とした混沌。
 ネロである獣は人を喰らった。人の尊厳とか価値とか、そういったものを一切合切打ち捨てて、ホテルに居た人人を喰い殺した。厭な場面の記憶である。
 この獣も、人を喰らったモノである。

 赤い獣は雨に打たれてししどに濡れ、体毛がぺたりと張り付いている。しかし雨に打たれる獣は弱弱しく見えるものなのに、此奴は水に怯える獣ではない。雨に打たれてさえ威圧感が増す。

 羽織袴の志貴は、眼鏡を掛けて傘を差したまま獣と対峙した。ばらばらと雨音が煩瑣(うるさい)い。

 獣の眼が細められる。ぐんと獣の躯が地に伏せられたと志貴が思ったら、既に大爪が目の前に来て視界を覆っている。爪一つで、志貴の貌と同じぐらいの大きさもある。それが六つだ。触れる触れる裂かれる。丸太のような足で振るわれる爪は、大きくて俊敏である。触れられたら裂かれる。

 志貴は、弧を描いて飛び込んで来た獣の腹の内に掻い潜って大爪を躱す。大爪が志貴の頬を強張らせてちりちりと焼く。獣の腹の内は雨が遮られている。そして犬畜生の類いは腹の肉が柔らかい故に、傘の先を腹の中央目掛けてきんと穿つ。がんと傘を持つ手に反動が走る。

 志貴は駆け抜けて柳を背後にして立った。
 がたりと傘は壊れた。ビニールが剥がれて骨組みが露出する。

 矢張りただの獣ではない。何者かの使い魔かもしくは魔獣か。魔導に対する造詣の浅い志貴には此奴が『魔』であることしか解らぬ。

 このままでは刺殺できぬ。だから志貴は、眼鏡を外して懐に仕舞った。

 人格の統合をした二人の志貴の内、七夜志貴の技術は卓越していた。しかし。
 『七夜』は純粋な魔とは相性が悪い。
 混血などの人間(・・)を相手にした場合が、七夜という殺人集団が最も機能したのである。
 幾ら技術が優れて巧みに穿ち斬っても、死なぬ相手では敵わぬ。故に純粋な魔との戦闘を請け負わなかった。

 例外を除き、純粋な魔は拝み屋や陰陽師士、神道師などの退魔の者が処理をする。しかし純粋な魔に対する術は混血には効かぬ。敵対する輩の性質に合わせて築かれた術であるが故に、人が混じった魔には術であるソフトにエラーが生じたのだ。

 七夜はそうした輩を相手にする為に発展したシステムの一つである。魔と混じりて力を得た者を刈る為に生じた抑止力なのだ。逆に純粋な魔に対して七夜をあてがうのは不適である。七夜は、刀で切れぬ杭で穿てぬモノを相手にした場合、死ぬ。

 技術はあるが殺せぬ。だが――。
 ――殺す手段があればどうであろうか。

 死が志貴の視界を覆う。志貴の魔眼殺し(フィルタ)は外され、魔眼が開かれる。

 月を穿つ、『直死の魔眼』。

 月の民、真祖の王族さえも殺したことのある魔眼である。極死点を穿たれず世界の触手であるが故に、彼女は再構築できた。しかしその眼は、決して滅ぼせぬと云われた『混沌』と『蛇』を消滅させ、赤き月の下『タタリ』のシステムを崩した怪異である。

 志貴はビニールが剥がれ折れ曲がった傘の残骸を構えた。既にボロである。傘として機能しない上に、これを用いて獣と対峙するのは、武器として貧弱過ぎる。だが。
 得物の選定は、『直死の魔眼』には不要。

 常に流動するラクガキのような死の線。ありとあらゆる物にあり、切りつける事により、線が走っていた物体を『殺す』事ができる超常事象。線には強度がない故に、どのような物だろうと平等に殺せられる。
 死の線は『物が切れやすい』線ではなく、存在の寿命という概念がカタチになったものである。厳密に云えば、線をなぞって物を解体するのではなく、寿命を切って物を殺しているということになる。
 物質的な破壊ではなく、存在的な、意味的な消去を執行可能とする怪異。

 志貴の命を蝕む(のろい)にして、バケモノを殺せる(しゅ)でもある。

 観るのは見えざるモノ、視界に写る凡ての死。
 そして視るのは、獣の死。

 赤い獣がジグザグに地を駆ける。雨でぬかるんだ地面に足をとられることなく志貴へと迫る。ぐらんと鈍く獣の眼が光っている。ゆらゆらと点は揺れる。裂けた口から覗ける牙は、人の腕程の太さである。

 志貴は躰を地に伏せる。そのままの姿勢で這うように駆け出す。頭は地に近い位置にあり、地面から土の匂いがする。雨粒が水溜まりに跳ねて貌へと当たる。右手にはビニールに覆われていた金属が、浮き彫りとなった傘の残骸。蜘蛛(ジグザグ)に疾る。右に左に赤い奴の視界の外へと疾獣の速度で移動する。

 しかし獣の大爪は、死角に潜んだはずの志貴へとぐんと迫って来た。――読み違えた。人と獣の視界は異なる。その上獣は人の何倍も感が鋭い。死角と判じていた範囲は、獣の領域であったのである。

 獣の爪を捉えたまま、志貴は僅かに頬を歪ませ自嘲した。慢心していた。己が愚かで滑稽である。読み違えは自の死に繋がる。
 誤差を修正する。獣と人は異なる。

 志貴は向かって来る獣の大爪を、左足で地を捻って躱す。無茶な方向転換が骨に負担を掛ける。しかし一度躱せたものを受ける道理はない。地面すれすれを跳びながら獣の右脇に潜み、『点』を狙って傘の残骸を構える。後は此奴の死へと突き刺すだけだ。その時。
 ぞくりと背筋が震えた。
 獣の体毛がきんと立っている。それは柔らかな毛であるとは想像できぬ。一本一本が鋼のような凶器であろう。ぱんと放たれた。
 地を弾く。射線から外れる為に、左腕だけで地面を弾いて右へと5メートル程離れた。下に潜んでいたのが幸いした。これが上から飛び掛かっていたら、この点でも線でもなく面での攻撃を避けられなかっただろう。

 地に足が着く前に傘の残骸を投擲する。左腕で跳ねた際に整えた姿勢で右腕を後ろに伸ばし、しなりを効かせてすんと放った。獣の腰上にあった【点】を狙った一撃である。一直線で飛んで行く。
 しかし。
 傘の残骸はぶるんと振るわれた獣の尾で払われた。残骸は森の奥へと消えてしまう。直感が鋭い。流石獣であるだけはある。獣は感が鋭くなければ生きられぬか。

 侮っていた。使い魔か魔獣であろうが、所詮獣だと思っていた。そうして必殺の三撃を凡て防がれた。慢心が、否安心があったことが遠野志貴の過失である。死徒ではなく鬼でもないと、人の知性を持たぬ獣だと侮った。

 七夜志貴を喰らったといえども、遠野志貴は本来副人格であって、それを主人格として無理な統合をしたものだから技術の継承が不完全となったのである。過去を思い出すという、記憶の再認が不確かとなっていたのだ。技術の一つでもあった感情の調律は、七夜志貴と遠野志貴とでは違えた。それは戦闘で決定的な差異となる。『殺人貴』として失格ではなかろうか。

 志貴は、『殺人貴』と教会に称されたが、志貴本人はその字名(あざな)を嘲笑ってしまう。殺人を貴ぶとは人でなしすぎる。その名は悪夢である影絵の彼奴にくれてやれ。遠野志貴として過ごした時間は、決して殺人に美意識を与えるような人格を育てるものではなかった。

 時南宗玄から聞いた父である黄理は、魔ではないただの人を殺すことにも罪悪感を感じないような人間であったそうだが、殺人ジャンキーだった黄理の兄と違い、飽くまで無感情だった。如何に巧く殺すか、ということが唯一没頭できる理由だったそうだ。
 七夜志貴にしても黄理と似て物静かで、しかし黄理と違ったのは子供らしからぬ諦めや悟りを幼くして得ていたことである。其処に殺人を貴ぶ感情が生まれる余地はない。

 そもそも二つ名や字名(あざな)は、自ら名乗る場合もあるが、大方は他者からその者を評した幻想である。『混沌』然り『アカシャの蛇』然り。彼女を城から出す為に生にしがみついている志貴には、殺人を貴ぶ感情はない。

 そういった他者からの評価が形造るものは、英霊などと云った幻想が凝り固まった存在のみが適当となる。生きていた時に幾ら横暴な者でも、伝えられた話が実直な者であったと伝えられていたら、実直な者として英霊は成立してしまうのである。

 悪夢の七夜志貴ではないのだから、殺人鬼をもじった殺人貴は志貴自身に相応しくない。ただ、そう思われているのである。

 志貴は傘の残骸を投擲してから地に足を着く前に、懐から鉄の棒を(こぼ)していた。からからと回って落ちる細長い黒い塊を雨が打つ。
 志貴の着地と同時にバチンと音がした。
 何時の間にか鉄の棒は、志貴の右手に握られている。ぎらりと光る銀色が飛び出ている。

 志貴の茶の混じった黒き瞳は――。
 ――りんと蒼く染まる。

 見えざるモノを観る浄眼と死を視る魔眼が起動する。死を視ようと瞳に強く意志を込めると、虹彩が変色する。見えざるモノを視ようとすれば浄眼にも意志が込もるからである。

 シキを起動する。手順を踏んだ式を実行する。七夜が成した公式は、そのセイブツの決まった急所を衝いた殺人である。しかし。
 遠野志貴に公式は存在しない。直死の魔眼を攻撃の基準とする。七夜の殺人式に組み込んだ不定の変数である。

 蠢きは定まらぬ死の線。
 死期を内包した死の点。

 如何に死領を識るか。
 如何に実行を為すか。
 如何に必殺と成すか。

 赤い獣が佇む志貴へと迫る。巨大な獣が志貴を狙う。志貴の意識は収縮する。
 何も考えられぬ。真っ白になった意識には何も映っていないのか。
 否、一つ存在する。一つへの収縮をもって式を起動する。
 獲物は人ではないが構わぬ。始めようか、殺人式を。
 焼ける意識の中。冷たい蒼い瞳は。
 死をミツメている。
 ――殺す。

 ばらばらと降る雨音の中、志貴の背後でぼろぼろと朱い音がした。

 





第四章 獣 中幕









あとがき


其の二

 戦闘描写がまだまだです。
 志貴君は人間です。
 けどいつか壊れそうです。

   実は、完結していないのに、後書きって要らないのではと思いました。
 それでは


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