必定の恣意








 金曜日の朝、時刻は10時10分前。
 翡翠はいつもの通り遠野の屋敷の裏庭で洗濯物を干していた。服や下着などが物干し竿に掛かっている。この後は玄関ホールの掃除をする予定である。
 屋敷には翡翠一人しかいなかった。志貴と秋葉は学校へ行き、琥珀は近所の商店街へ買い出しに行っている。琥珀はいつも1時間ぐらいで帰って来るので、11時前には帰っているだろう。その後、昼食を作ってくれるのである。大きな正門の鍵は、琥珀が出てから開いている状態だった。

 翡翠は空になった洗濯籠を持って屋敷に戻った。洗濯機が置いてある脱衣所の付近にある洗面所へ洗濯籠を片付け、掃除用具を取りに行った。
 長い廊下を歩いている。屋敷は広く、部屋から部屋への移動だけで結構時間が掛かる。端から端へ行くとしたら、10分以上掛かってしまうかもしれない。しかし翡翠は、この屋敷で生活し続けているので、広いとは思うけれど、時間が掛かることを手間が掛かると思ったことはなかった。
 ふと窓の外を見てみたら、人が正門から石畳の上を歩いて来ていた。琥珀が何か忘れ物をしたのかと翡翠は思った。が、よく見ると、人は黒い格好をしていた。遠くなので顔などは確認できないけれど、琥珀は小豆色の着物を着て出かけたので、琥珀ではないということだ。歩いて来る人は、服が黒くて顔が白い。客人の予定はなかったはずだと思ったけれど、出迎えをしなければならない。用件は解らないが、当主を尋ねに来たのだろうか。秋葉が帰宅する時間を告げて、帰ってもらおう。掃除用具を取りに行くのを止め、踵を返して玄関ホールへ向かった。

 翡翠は玄関ホールに着いた。中央に敷かれたスオウ色の絨毯。広い吹き抜けのホールで中央から緩やかな曲線を描いて上昇する大階段があり、花が角に先代が買った花瓶に入って飾られている。絵画なども飾られているけれど、翡翠が知らない画家の作品だった。

 カンカン、と扉がノックされた。電鈴が主流だけれど、ここは獅子の形に型取ったレリーフがあり、鉄の輪で打ち鳴らすようになっている。その音は一度ホール内で反響して割りと大きな音で屋敷内に響くので、今もこのままにしている。来客を知る手段は、その他に琥珀が趣味で付けた監視カメラや赤外線装置などがあるので、実際は使用される前に来客が来たことは判る。しかしそれらの装置は、琥珀の管轄なので翡翠は使用方を知らなかった。

 翡翠は大きな両開きの大扉を開けた。太陽の光が眩しかったので一瞬目を細めた。客人を確認する為に外に足を踏み出した。
 突然、目の前に――。
 大扉の陰から黒いものが飛び出し、彼女の目の前に迫った。
 それは、翡翠の腕を掴んだ。
 はね飛ばされるように、絨毯へ押し倒される。
 何が起こったのか確認することもできない。
 悲鳴を上げる暇もなかった。

「動くな」

 低い男の声がすべてを遮る。
 恐ろしい声は、彼女のすぐ耳元だった。
 息ができない。
 強い圧力で、彼女の喉は押さえ付けられていた。
 黒色のTシャツに、作業服のような紺色のズボン。
 黒い手袋が、絨毯の上に倒れた翡翠の首から、ゆっくりと離れた。
 翡翠はやっとのことで、相手の顔を見る。
 仮面だ。
 恐ろしい、大きな仮面だった。
 こめかみの辺りから2本の角があり、眼の部分は穴が空いていて瞳が窪んで見えた。口は赤く裂けており牙が覗き、真っ白の肌を表現していた。般若の面である。

「やあお嬢ちゃん」

 男は黒光りする物体を翡翠に向けている。
 自分の髪が目にかかり、前がよく見えなかったし、あまりに近くだったのでピントも合わない。しかし目の前にあるものが、拳銃だということは判った。

「悲鳴を上げられるのは、うるさいからやらないでくれよ。どちらにしろ正門からここまでだけでも結構距離があるからな。どんな音が聞こえても苦情が来ることはない。ちなみにこれは、消音仕様だから使用しても家庭用花火よりも小さな音だ」

 飄々としている。

「さて、まずは当主の執務室へ案内してくれないかな」






















 買い物を終えた琥珀は、袋を片手に提げて人気のない住宅街を歩いていた。
 昼の住宅街は夜よりも人気がなかった。ある家庭では、父は仕事場へ子供は学校へ行き、妻も仕事か家事をしているのだろう。公園があれば人が集まるかもしれないけれど、この地域にはなかった。
 道はブロック塀が長々と続き、様々な表札と家が塀の奥に建ち並んでいる。

 琥珀は車の排気音を後方から聞いた。道の中央よりを歩いていたので、車が通り易いように右側の塀に避けた。
 琥珀のすぐ後ろで、きいと音がした。車が止まったのだろう。この辺りの家に用があったのだろうか。右側に避けなくても平気だったらしい。
 車の扉が開く音がして足音が琥珀に近付いてきた。琥珀はふと振り返った。
 突然、腕に痛みと圧迫感。琥珀は腕を拘束され、荷物を落とした。鼻と口には白い布を当てられた。

「――んぐっ」

 ――この匂いは、クロロホルム。

 琥珀の視界はちかちかと明暗がはっきりとしない。しだいに白く染まっていく。意識を、失った。

 ――鬼の、面。

 意識が途絶えるまで見ていた仮面は、琥珀の脳髄に刻み込まれた。






















「なあ遠野」

「ああ――?」

 学校の三時限後の休み時間。有彦は、机に突っ伏していた志貴の前の席に反対向きに座って声を掛けた。志貴は頭を上げた。

「ふと思ったんだけどよ。今お前ん家は、琥珀さんと翡翠さんしかいないんだろ。もしものときに、か弱い少女だけで大丈夫なのか」

「大丈夫だと思う。屋敷は琥珀さんのテリトリーだから、人外が相手だろうと策謀で嵌れば勝ちはしないだろうけど、負けもしないだろうな。琥珀さんは遠野の屋敷では最凶だということだ」

「良く解らんが、大丈夫ってことだな」

「ああ。けど、突然どうしたんだ?」

「ああん? なんとなくだ。虫の知らせかもな」

「不吉なこと言うんじゃねえよ」

 まったくだ、と有彦は言った。そして苦笑した。
 志貴は何か引っ掛かるような思いに捕らわれたが、気にせずに、再び机に突っ伏した。






















 翡翠と仮面の男は遠野家当主の執務室に居た。広い空間で暖炉や大きなデスクがあり、調度品や書籍が置いてある。翡翠は顔を俯けて窓を背に立たされており、男は当主の椅子に深く座り込んでいた。拳銃はデスクの上の男の手に届く位置に置いてあった。

「話をして、よろしいですか」

 翡翠は顔を上げて男を見た。気味の悪い仮面だ。

「いいよ」

 男は少し驚いたふうに応えた。

「何をしているのですか」

「誘拐」

「誘拐? 私をどこかに連れて行くのですか」

 翡翠は、琥珀が帰って来る前に移動したかった。人質は一人で良い。琥珀を危険な状況に合わせたくないのだ。琥珀ならば遠野家のカラクリに精通しているから、素手でも相手を陥れることはできるだろうが、わざわざ命の危機のある場所に来て欲しくなかった。

「どこにも行かないよ。君はここに監禁だ。それにしても今代の遠野家当主は気が強いよな。分家を追い出して、こんな広い屋敷にたった4人で暮らしているんだから。まあそのおかげで、ことが楽に運べるだけどね。そして、ただの侍女ならば誘拐する価値はないんだけど、同年代で暇を出されなかった君達には人質としての価値はあると思う。遠野は人でないものの混じりだが、君達はただの人だろう。力がない。けれども君は、物分かりが良くて助かったよ。取り乱して暴れでもされたら、怪我をさせなきゃならない」

 男はクツクツと低い笑い声を上げた。

 翡翠は驚いた。場当り的な犯行ではなく、遠野を混血と知りながらも、男は実行したらしい。遠野は財界政界の高い地位にいるので、そういうやからに狙われることはあるが、混血一族としての遠野の情報を少しでも所有している者が、犯行に及ぶとは思いもしなかった。

 ――君達? まさか。

 翡翠の背に厭な汗が噴く。冷や水を被ったようだ。

「ひょとして、姉さんも誘拐されたのですか」

「ん? ああ、和服の女か。そうだよ。俺らは一人ではないからね」

 翡翠は目眩に襲われた。出掛けているから無事だと思っていた琥珀は、既に危険な目に合っている。
 膝をがつんと落とした。ぺたんと床に座る。

「そんな。――私が人質なのですから、姉さんを放して下さい」

「無理だ」

「どこにいるのですか」

「さあね」

「傷付けませんよね」

「あまり、しゃべるな」

 低い声で男は言った。決して大きな声ではなかったけれども、威圧感があった。
 翡翠は黙る。
 琥珀は、無事だろうか。






















「――んっ」

 琥珀はゆっくりと瞼を開けた。視界はぼやけていたが、しだいに焦点が合ってきた。まず見えたのは木製の床だった。それから首を傾けて辺りを見やる。大きな棚があって、中央にテレビが置かれ、両脇に西洋人形や陶器などの調度品がある。壁には壁紙はなく、木の木目が暖かみを与え、古びてみえる暖炉は綺麗な状態で残されている。窓の外には木々が立ち並び、空は蒼い。部屋の中央にはテーブルがあり、それを囲むようにソファが置かれている。部屋は広く、シックな雰囲気であった。

 しかし、その雰囲気を乱す者がいた。白い般若の面を被った者が3人いるのだ。2人はソファに座り、1人は壁に寄り掛かっている。何か会話しているらしいが、まだ思考がぼやけていて良く分からない。ただ、3人の他にもこの建物に人がいるらしい。

 琥珀は、思考がはっきりとしてきて、やっと縛られていることに気がついた。木の椅子に座らされ、両腕と両親指を縛られている。
 思い出した。
 どこかで見たことがある内装だと思っていたが、ここは久我峰家に管理を任した遠野家の別荘だ。志貴の故郷を探していたときに訪れた建物のうちの一つであった。

「起きたか」

 ソファに座っていた男が琥珀の方を向いた。片方の人は携帯電話で何か話をしている。3人の面は同じで、鬼である般若の面だ。

「え〜と、もしかして、誘拐ですか」

 琥珀は頬を引き攣らせて言った。
 そうだ、よく解るな、と男は答えた。

「三咲高校と浅上女学院に電話を掛け終わったところだ。君と妹さんの命で1億ずつ用意させる。すぐ動かせるのは2000万と言っていたから、300万ずつ指定の銀行に振り込ませてる。かの遠野グループの長ならば、2億全部を一括で用意してもらいたいものだ」

「――志貴さんと秋葉さまの学校ですね」

「とても落ち着いているな。まあ喚かれるよりも、断然こちらの方が良いか」

「今はどなたに電話しているのですか」

「君の妹を拘束している男にだよ」

「翡翠ちゃんは、無事なんでしょうね。話をさせてください」

 琥珀の眼は鋭く細められた。

「――ん。まあいいか」

 男は、隣で携帯電話を使っている人に目配せした。隣の人は、女に代われ、と電話先の人に言ってからそれを男に渡した。男は立ち上がり、琥珀の横にまで行って携帯電話を琥珀の耳に当てた。

「翡翠ちゃん? 私よ。そう――。私もそうなの。遠野の別荘よ。怪我してない? ――ええ、大丈夫だから。抵抗しないでおとなしくしていてね。絶対危ない真似はしちゃだめですよ」

 終わりだ、と男は言った。そして琥珀から携帯電話を離した。

「では、さよなら」

 男はそう言うと、通話を切った。






















 志貴は学校の事務室の電話機の前で立ち尽くしていた。校内放送で呼ばれて受話器を受け取り、見知らぬ男と交わした通話は、最悪な内容だった。

「――くっ」

 志貴は苦虫を噛み潰したような表情をした。

 男は、琥珀と翡翠を誘拐したと言った。2億円を用意して金を口座に振り込め。警察や遠野家分家などの組織に知らせるな。遠野家当主にも誘拐したことを伝える。1億円振り込まれたら1人開放する。だいたいはこのような内容だ。
 志貴は遠野家の長子であり、秋葉は遠野家の家督であるから、金を動かせる人物だと思ったのだろう。だから二人に電話するのか。

 志貴は遠野の屋敷に電話を掛けたが、誰も出なかった。それは男の話の信憑性を高め、志貴の不安を増した。
 秋葉の通う浅上女学院にも電話を掛けた。まず事務員が電話を受け、秋葉を呼んでもらおうと思ったら、受話器から秋葉の声が突如聞こえた。秋葉は事務室にて誘拐犯からの用件を聞いたばかりだったのだろう。時間的にありえる。

『兄さんですか?』

 秋葉の声が普段より冷たく聞こえた。感情的になりやすい秋葉は、なるべく自制しているのだろう。

「ああ俺だ。――聞いたか」

『ええ、琥珀と翡翠が誘拐された件ですね。さっき電話を受けました。まず2000万を久我峰の者に振り込ませています。分家と連絡を取るなと言われていても、私だけでは解決することはできませんから。けれど今は、久我峰家に子細を説明していません。こういうことにも強い斗波と連絡が取れれば、説明しても良かったのですが、居ない者は頼れません。私は、私が用いれる手段を使って二人を助けます。兄さんも動くのならば、アルクェイドさんやシエルさんを使って下さい。彼女らは常識から外れているモノですが、使える人材です』

「ああ、判った。金を払っても無事に帰って来るとは限らないんだろう。俺も動く。まずは先輩に協力してもらうよ。俺には思いも寄らない手段を知ってるだろうからな。それから一度、屋敷に戻ってみる」

『そうですね。翡翠は普段、屋敷から出ることはありませんから、誘拐されたということは、屋敷に犯人が来たということです。何か解るかもしれませんね』

「じゃあ、――家族を救おう」

『当然です。それでは』

 志貴は受話器を置いた。早退する旨を事務員に伝え、事務室を出て行った。






















 翡翠は遠野の屋敷の執務室の窓際で足下に視線を落としていた。スオウ色の絨毯がある。そういえば男の靴は、土で汚れていたから、このままでは絨毯が汚れてしまう。後で掃除をしないといけない。
 それから翡翠は、外に視軸を移した。琥珀は誘拐されてしまったけれど、先程した電話によって無事を確認できた。

 犯人グループの狙いは、翡翠と琥珀を別々の場所に監禁することで、志貴と秋葉が行動したときの人質の危険性を上げ、二人に対する抑制を高められるのだろう。しかし、遠野の屋敷と別荘という遠野の管理地を監禁する場所に選択することには、どのような是非があるのだろうか。よしは、敷地内にある物を取られること。あしは、屋敷を監禁場所にするということで、翡翠の場所は志貴と秋葉にすぐ判ってしまうことだ。否それにより、別荘が灯台下暗しとなられるか。そして翡翠を助けた場合、琥珀の危険性がとても高まってしまう。犯人グループの選択は、混血一族を相手にしても、最悪なことに有効かもしれない。

 厭な予感がする。
 翡翠は琥珀の安全を祈った。



 翡翠は、人が鉄の扉から石畳を歩いて来たことに気がついた。遠くて顔は確認できないけれど、あの恰幅の良い格好には見覚えがあった。

「おや、来たのか」

 いつの間にか、男は隣の窓際に立っていた。敵意なく友愛を感じられる口調である。

 まさか。
 まさかまさかまさか。
 こんなことって有り得るのか。仮面の男の落ち着いた発言は、厭な想像を駆り立てられる。



 しばらくして、執務室の扉が開いた。細目で小太りの中年男性が、おっとりと踏み入れて来た。

 久我峰斗波。遠野分家にして遠野グループの経済と情報の中心に位置する久我峰家の当主であり、様々な人脈を持つ者である。そして彼の趣味と視線は、翡翠に嫌悪感を感じさせるものだ。けれど、遠野グループの中で志貴と秋葉の一番の見方である。それが何故ここに居るのか。

「どうした久我峰」

 男は立ったまま斗波を迎え入れた。
 翡翠の顔は蒼白となった。目眩と吐き気もする。裏切られたという思いが、翡翠に不調を来す。

「ここはもう、用がなくなったのですよ。この屋敷に居続けるのは危険なのです」

「そうなのか? まあ、お前が言うんだったらそうなんだろうな。あいよ、移動かい?」

「はいそうです。それと、邪魔な者を処分してから移動します」

 斗波は懐に手を入れた。鈍く黒光りする鉄塊が出てきた。拳銃だ。

「傷つけるなと言ってたくせに変更かよ。じゃあ俺にやらせてくれないか? 人を撃てられる機会は久しぶりなんだ」

 男は振り返ってデスクの上にある拳銃を取りに戻ろうとした。
 斗波は首を振った。

「いえ、こればかりは私がやります。私がやらないといけないのです」

 けっ、そうかよと男は言った。

 拳銃が向けられる。
 カチリと硬くて固い音が鳴る。
 ドドン、と低くて激しい凶音が響き渡った。
 紅く赤く朱い花が絨毯の上に咲いた。絨毯に染まった色彩は、赤から黒になっていた。

 何かが、屋敷で終わった。

「さあ、車で移動しましょう」






















 シエルと志貴は遠野の屋敷への丘を駆け上がっている。
 彼女は、恐い表情の志貴が授業中に彼女の教室の外に現れたので、何か用件があるのだろうかと思いながら、早退の旨を教師に伝えて廊下に出た。そしてその場で聞いた話は、彼女を真剣にさせた。琥珀と翡翠の誘拐は、彼女にとっても見過ごせないものだったのである。

 シエルは正門の前で止まった。鉄の柵の奥に西洋式の屋敷が見える。
 追いついた志貴は、シエルの隣に止まった。

「やはり人は、誰も居ませんね。どこかに監禁しているのでしょう」

 シエルはロアの遺物である魔術の行使を嫌っていたが、今は感情を気にしてはいられない。遠野の敷地に走査の魔術を掛けたら、人は一人も居ないことが判った。

「そっか。けど何か手掛かりとかあるかもしれないから、先輩は1階を。俺は2階を探します」

 シエルはその言葉にこくりと首肯き、鉄の扉を押し開けた。



 1階を探していたシエルは、遠野家当主の執務室の前に居た。大きな木製の扉。厭な予感がする。この扉は、まるで結界のように感じられる。これを開けると何かが変わってしまう予感。
 シエルは厭な予感を振り払うように軽く頭を振って、扉のとってに手を掛けた。かちゃりと捻り、ゆっくりと押す。そしたら、開いた隙間から赤い匂いが吹き出して来た。赤が湧き出す。扉を完全に開け、中に踏み入れた。誰もいない。けれど厭な匂いが、体をぶわりと包む。澱んでいる。赤い鉄の匂いがする。

 シエルの視界に厭なものが写る。スオウ色の絨毯を黒く染めた色彩。絨毯の上の血は、シエルに厭な想像を喚起させる。目測では致死量を越えた血液だ。誰の血か判らないのだから、琥珀と翡翠はまだ死んだとは決まっていない。決まっていないのだ。下唇を噛み、溢れ出す感情を自制する。自の感情を騙すことは慣れている。騙せ騙せ騙せ。凍結しろ。

 シエルは扉を閉めて部屋から出た。扉に背を預け、俯いている。それから上げた顔は、何かを決めた表情だった。



 シエルは集合場所である玄関ホールで志貴を待っていた。しばらくすると、志貴が階段を降りて来た。彼の表情からは、焦燥を感じられた。

「何かありましたか」

「いえ、なかったです。先輩の方は?」

「こちらもありませんでした」

 嘘だ。志貴があのことを知ったら、感情を自制することができるか判らないために、嘘をついた。

「そうですか」

「そういえば遠野君。琥珀さん、翡翠さんと感応者としても契約していましたよね」

「はい。それがどうしたんですか」

 いつもなら、頬を赤くさせる質問なのだが、今はそんな余裕はないようで、志貴は素直に頷いた。

 シエルはこのときばかりは、愚鈍であるのに絶倫であって甲斐性がある志貴の分け隔てない情欲を、良かったと思えた。

 志貴が魔導的に契約しているのは使い魔であるレンだけではない。琥珀と翡翠ともだ。二人の家系は、どうやら古い純潔種であるようで、契約式の超能力を保有している。感応者との契約は体液の交換で成る。契約者と被契約者には、ラインが存在する。ただ、魔術師ではない志貴では、パスを通じて居場所を知ることはできない。シエルが知ろうとしたら、魔術的に邪魔をされていなければ、位置を特定する自信がある。

「遠野君。二人の位置を知る方法を思い付きました」






















 琥珀は椅子に座らされたまま時間がだいぶ過ぎた。お腹が減った。昼食前の買い出しのときに攫われたので、昼時は既に過ぎてしまっている。翡翠はきちんと食事を摂っているかな、と彼女は心配になった。

 誘拐されたときは、腕の拘束をされるものだと思っていたけれど、親指も縛られるとは驚いた。これでは腕を使えない。脚を使えるだけだ。

 突如。
 爆、と破壊音が轟いた。
 白い影が音と同時に部屋に入って来た。巻き上がった埃の中ですらりと立ち上がる。埃が晴れてきて、その姿がはっきりと現れた。

 アルクェイド・ブリュンスタッド。シエルと庭先でよく喧嘩をしている自称吸血鬼。それも、どうやら自称ではなく、本当に吸血鬼であるらしい。

「やっほー、琥珀」

「――アルクェイドさま?」

 椅子に座らされたままの琥珀の目の前で、場違いな笑みを浮かべるアルクェイドが立っていた。

「誘拐されたって聞いて驚いたわ。けど間に合って良かった」

 カチリと音が鳴った。部屋にいた三人の内の二人が無言でアルクェイドに拳銃を向けた。琥珀の近くに居た残り一人の拳銃は、人質である琥珀に向けられる。銃は、相手が人ならば必殺にたる凶器。死を撒く道具。
 しかし銃声は、鳴ることはなかった。代わりにばす、と血が吹き出す音を上げた。

「えっ」

 琥珀は辺りを見回した。部屋には琥珀以外にアルクェイドしかいない。仮面を被った三人は、爆砕していた。三人が居た場所にはそれぞれ、赤い液体しか残っていなかった。血は壁や床にぶち撒かれ、ある種の芸術のようにも感じられた。

 琥珀は悲鳴を上げなかった。現実感の無さが、悲鳴を上げさせない。あまりに砕け過ぎていて、人であったとは思えなく、死体への嫌悪感を抱けなかったのである。否、ここまで砕けていたら死体ではない。塵だ。塵に嫌悪感を抱けなくても仕方がない。ただの屑なのだから。

 瞬殺行為。
 人の命を停止させる殺人行為。
 形を残すことのない、圧倒的な殺戮行為。

「じゃあ琥珀、行こっか。志貴が待ってるわ」

 いつの間にか、琥珀を縛っていた縄は切れていた。椅子の足下に落ちている。

「琥珀さん!!」

 そのとき、扉を開けて志貴が駆け入ってきた。部屋を見回し、椅子に座っている琥珀と目が合うと、飛び込むように抱き締めた。

「――善かった。怪我はないんだね」

 琥珀は頬を赤く染めた。立ち上がれない。何もできない。どうしよう。
 まあしばらくは、このままで好いかもしれない。






















 志貴、アルクェイド、シエル、琥珀は遠野の別荘の前庭で人を待っていた。さんさんと照る太陽が、とても気持ちが良い。

 後ろの別荘に居た犯人グループは、例外なく屠られている。ここまで志貴たちは、シエルが運転した車で来た。それから途中の林で車を止め、電話をして呼んで一緒に来たアルクェイドに、別荘へ先行してもらったのだ。志貴とシエルはアルクェイドに続いて別荘に侵入し、中にいた人を殺し尽くした。今回は、相手が人であろうと、慈悲無く凶器を振り下ろした。大切な人を奪おうとした奴らに、配る情けは一片も無かったのである。

「やっと来ましたね」

 シエルが言った。
 視界では、黒い車が林をぬって走って来た。そして志貴たちの前にきいと止まった。それから横に止まった車の後部座席から翡翠が出てきて、助手席のドアを開けた。そこからは丸い塊を掴み上げた秋葉が、それでも優雅に地に降りた。

 志貴は翡翠が無事だったのは嬉しいが、秋葉の掴み上げているモノに驚いて声を上げられなかった。

「斗波さん」

 志貴が呟いたと同時に、秋葉はそれを地面にぽいと投げた。

「痛いのですが、秋葉さま」

「お黙り」

「――はい」

 斗波は大きな体を縮めて返事をした。

「どうなっているんだ、秋葉」

 志貴は、シエルから秋葉と翡翠が近付いて来ることを聞いていたが、斗波の登場は予想外だった。秋葉と翡翠は、共有者としてと感応者として契約していた為に、位置が解ったそうだ。

「そうですね。結論から言うと、今回の事件はすべて久我峰が仕組んでしくじった結果でしょうか」

「しくじった?」

「ええ、ここに来るまでに久我峰から聞き出したのですが、どうやら軋間の家系の者に、犯罪を企てていた者たちがいたそうです。そして彼らが、このたびの犯人グループです。
 鬼種である遠野一族は、遠野家当主である私が反転した者を始末します。しかし、反転せずに犯罪を起こそうとした者たちがいた場合はどうするか。それも鬼種である彼らは、反転せずとも強大な力を持ちます。故に彼らが警察などに捕まった場合、血が露呈してしまう可能性があるのです」

 それはいけませんね、とシエルは言った。

「ええ。だからその場合も、あちら側に捕まる前にこちら側で始末することになっています。事件が起こったとしても、遠野家から捜査を停止させることもできるのですよ。けれど今回は、事件を起こす前に起こしそうな人物たちを調べ上がったそうですね。
 久我峰は反転をしていない者まで私に始末させるのは悪い、と一人で計画を決められて、人物を明確に知るためにわざと彼らを率いる立場に立ったそうです。そして始末する予定だったそうですけど、予定よりも早く彼らが行動に出てしまったらしいです」

 秋葉は、地面に座っている斗波の背中をがす、と蹴った。

「計画の筋書きは違えてしまったそうですが、更に大切な枠組みは整っていたらしく、事件はこちらに被害を出さないようになっていたそうです。翡翠は久我峰が保護していましたし、この別荘は屋敷よりも多数のカラクリが仕組まれているそうです。そして琥珀は、その仕掛けをすべて知っていたそうですね」

 あはー、と琥珀は笑みを浮かべた。
 屋敷よりすごいということは、琥珀の陣地となって、犯人グループ相手でも嵌めることができたんだな、と志貴は思った。いつも嵌められている経験が、琥珀がカラクリを起動させたときの恐怖を一番よく知っている。――地下室コワイ。

 秋葉は、斗波をげしげしと踏み潰したながら溜め息を吐いた。
 痛ッ痛いと斗波は悲鳴を上げていた。

「皆無事だったんだから、別に良いじゃない」

 アルクェイドはそう言った。
 志貴は、アルクェイド、シエル、秋葉、翡翠、琥珀、おまけで斗波を見回した。

「そうだな」






















 事件から数日後、駅前にある喫茶店、アーネンエルベのテーブルに奇妙なカップルが座っていた。恰幅の良い男性と小豆色の和服を着込んだ少女だ。

 背中は大丈夫ですか、少女が訊いた。

「若干痣になっていますが、痛みはありません。秋葉さまも手加減して下さったようで、仕事に差し支えはありません。手加減されなかったら、私はきっと入院していたでしょうね」

「私と翡翠ちゃんを危険にさらしたことを怒っていたんだと思います。私も翡翠ちゃんをあんなめに合わすようにしたことには、反省と貴方の不手際に怒りを感じます。それだけではなく秋葉さまは、一族の問題を自分さま抜きで解決しようとしたことに肚を立てたんじゃないでしょうか。秋葉さまは立派ですから」

「はい。秋葉さまは当主として素晴らしいです。けれど今は、なるべくこういうのは気にせずに、志貴くんたちとの楽しい日々を過ごしてもらいたいのですよ。今が一番楽しい時期でしょうから」

「そうですね。秋葉さまの笑顔が多くなりました。以前では考えられない状態です。嬉しい状況ですね」

「それで、貴女が手にいれた2億円をどうするつもりなのですか」

「あはー、秘密ですよ」







必定の恣意 終幕









あとがき

其の一
 他の作品を一時置き、実験的に、短くても幅のあるSSを書こう、と。


其の二
 読み返してみると、論理的でない箇所がありました。それは、ドラマ的な展開を優先させていたからです、と言い訳をしてみたり。ドラマにもなっていないかも。反省。
 このSSは上記以外に、琥珀さんの策謀をテーマにして枠組みを重視したのですが、読者の皆さんには、結末が割りと早く解ってしまったかも知れません。けれど、一人でもどんでん返しを楽しんでいただけたら幸いです。

追伸
 琥珀さんは、おもしろおかしく表立ってひっかき回すことだけでなく、裏で策謀を仕組むことも魅力の一つ。歌月十夜でアンバーや謎の中国人のようなギャグだけではないんです。


[書庫]



アクセス解析 SEO/SEO対策