桜の木の下

第四章 施術起動








 同じ行為は面倒臭い。

 ラピスは金属の板をつうと撫でた。ナデシコの要の一つであるオモイカネへ直接に繋がるコンソールである。キーボードと比べたら規格外の性能を誇る入力装置だが、IFS処理をした者でなければ使えない品だ。それに遺伝子を改竄したマシンチャイルドでないと性能の3%も発揮出来ないという、酷く限定された世界最高峰の技術である。

 特定の人物しか巧く使えない物があって、自分がその特定の人物であった場合はどうなるのか。考える必要はない。それに関連する仕事は全部自分に回って来るということだ。ナデシコのサブオペレーターの職に就くラピスは、火星で滅茶苦茶に壊されたナデシコの、修繕に併せて発生する処理しなければならない情報を、仕事なのだからきちんとこなさなければならない。面倒である。

 幸いなことは、その特定の人物ではあるのだが、メインオペレーターではないということだ。メインは別にいる。ラピスの隣の席に座っている星野ルリである。

 ラピスはルリの方へ視軸を向けた。
 ルリはラピスと同じようにコンソールの上に掌を添えている。椅子に座って金属の板にただ掌を添えている姿は、見た目では何もしていないように見える。が、IFS製品とはそういう物なのだ。IFS処理者は、端末から機械と繋がって脳髄で処理をする。遺伝子改竄者と未改竄のIFS処理者も変わらない。

 けれども、遺伝子改竄者と未改竄のIFS処理者では異なる点はある。能力面のみならず、外見にも違いがある。
 まず第一に色素が薄い。肌膚は白く髪は銀色、瞳の色は金色である。そして容姿の美しいとか醜いとかは、時代や人によって変わるから判らないが、現在存命する人類とは一風変わったものであることは云える。遺伝子改竄者であろうが人類には変わりないのだが、人類の中で区分けをすれば、新たな箱に振り分けなければならなくなるだろう。特殊なのだ。異端である。

 どうしましたかラピス、とルリは此方に振り向いて云った。眼が合う。金色に染まった硝子玉だ。

「お腹空いた」

「――作業を開始してから既に5時間は経過していますからね。休憩をとりましょうか」

 ルリは椅子をくるりと回転させてラピスの方を向いた。それから立ち上がった。
 そうだね――ラピスは連れ立った。



 ラピスとルリはブリッジを出て金属の長い廊下を歩く。ナデシコの廊下は、3週間程しか暮らしていないのに、妙に生活感が色濃くあった。

 ラピスは先を歩くルリの背中を観ていた。ルリの姿は、ラピスの義姉である星野瑠璃の姿と重なる。瑠璃の方が外見年齢は高いが、2、3年もすれば瑠璃とルリの容姿はぴったりと重なるだろう。



 一週間前にナデシコは、佐世保シティ付近のチューリップから現れた。その時の時間は、ナデシコが火星でチューリップに入った時間と同じだった。火星で圧倒的に壊されたナデシコは、時間を消費せずに地球へ跳んで逃げたのだ。
 瑠璃が、施術を起動したおかげでこの時空間に顕現出来たらしい。

 過去に瑠璃から聞いたボソンジャンプについての情報では、A級ジャンパーかチューリップのような遺跡技術によって時間軸座標軸を遺跡に伝達しなければ、対象はランダムジャンプをしてしまうそうだ。瑠璃が、A級ジャンパーであるアキトやユリカに干渉する施術を起動させる前は伝達されていない状況だった。時間軸座標軸を指定しないランダムジャンプは、どの時間どの空間に送られるか不明な為に、それを行った者は、残された者たちには死と同義で捉えられる。技術は制してこそ力となるのだ。

 瑠璃とは火星で別れて以来会っていない。ボソンジャンプという事象の対象になられないらしい瑠璃は、火星に残された。一週間もすれば地球へ帰って来られそうだが、ラピスは瑠璃の移動速度を知らないので、推量でしか測られない。

 ――それにしても瑠璃には、謎がたくさんある。私は何処まで知っているのだろうか。

 瑠璃はラピスにとって義理の姉だ。日本で暮らしていた家の名義などは、瑠璃の使い魔や代行者、下位存在のような者であるセリシス・アルシェスカ・ラズリであり、ラピスの戸籍ではセリシスの義理の妹であったが、瑠璃とセリシスは同意であろうから、瑠璃の妹でも間違ってはいないだろう。瑠璃から与えられたラピス・ラズリという名を和訳すれば瑠璃となることから、桜色の少女には瑠璃にとって何かしらの意味があるのだろうか。否、違った。瑠璃は記録の中と同じ位置に立つ少女に同じ名を与えたのだ。実際に桜色の少女にラピス・ラズリという名を与えたのは、瑠璃の世界と同義である天河明人であったそうだ。

 瑠璃にとってラピスは、異なる世界のラピスから送られる、『幸詩』と瑠璃が名称をつけた情報をより効率よく収束する為の道具だ。時間という概念がない隔たりを通過して伝えられる情報は、朧気で曖昧で不足しているそうである。だから少しでも効率が増すように道具を使う。けれども。
 瑠璃はラピスを学校へ通わせたりと人間らしい生活をさせた。服を与え料理を教え住居に住ませたりと、随分と人間らしい生活だ。

 ――そう云えば明人と百合香の許にいるラピスも学校に通っていたか。

 ふむとラピスは頷いた。道具である桜色の少女を送信者であるラピスに近付ければ、尚効率が増すのかもしれない。だから桜色の少女には、ラピス・ラズリという名でなければならなかったのではないか。



 ラピスはルリの後ろ姿を観て、小首をこてんと傾げた。
 この人形みたいな、否人形であるルリがどうなったら、あの腹黒い瑠璃になられるのだろうか。容姿は似ているが、内にあるモノは全く違う。しかし。
 意志(こころ)ルリ(人間)の内側にあろうが、それは外的要因による環境によって変動するから、これからの経験により如何なる可能性もあるのだろう。

 ねぇルリ、とラピスは云った。
 ルリは立ち止まり、背を逸らして顧みた。蒼みがかった銀色のツインテールがふわりと踊る。

「ネルガル本社からユリカへの通信記録があったから覗いてみたんだけど、ネルガルはナデシコを地球の戦地へ傭兵として行かせるみたい。ナデシコは火星へ行って戻って来ただけでも、軍への十分なデモンストレーションになったけれど、更に木星蜥蜴との戦闘を魅せつけるらしいよ。火星では役に立たなかったけれど、地球の無人兵器相手ならば、まだ有利に戦術を展開できそうだしね。――やはり私は、やらなければならないのかな」

 ルリは絡まっていた視線を外し、前方に視軸を戻して歩き出した。
 ラピスも後を歩く。

「そうでしょうね。オペレーターとして仕事をこなさなければならないと思いますよ。ナデシコの運用に私と貴女は欠かせない人材でしょうから。ただ火星へ行くのにも地球の戦地へ行くのにも、艦長の指示通りにすれば良いだけですし、現在の時世なら何時死んでもおかしくありません。ならばナデシコに乗っていれば良いんじゃないですか」

「――ルリは?」

「私ですか。私の場合は、私の所有権は星野研究所からネルガル重工へ移りましたから、雇傭契約による兵役を免れることはありません。買われた身なんです。まるで奉公に出された小娘ですね。あ、ちなみに参考資料は日本の江戸時代のデータです」

「そっか。ナデシコの処理量は多くて面倒臭いんだけどね」

「貴女が怠けたら、その分だけ私に負担がかかるのですから、しっかりとやってください」

「はぁい」

 ラピスは小さな声でそう云った。



 二人はブリッジから長い廊下を歩いた。ラピスの目的地ではないのだが、ルリはジャンクフードの自動販売機が四つある地点で止まった。麺類が主なレパートリーの販売機である。

「ルリはこれを食べるの?」

「はい。いつもそうしているんです」

「ふうん。私は食堂に行くから」

「ええ」

 ホウメイが作る料理の方がおいしいのにな、とラピスは思った。もしかしたらルリは、マシンチャイルドは基礎代謝が人より高いから、低栄養価で高カロリーのジャンクフードで食料費を安く浮かせてるのかなともラピスは思った。徒然と思考を巡らしたけれど、結局ルリを残して自動販売機を後にした。























 ラピスは食堂の前に着いた。廊下の右側に白いドアがある。
 ナデシコ内の凡てはオモイカネによって管理されているが、扉の一々を管理してはいない。それらはサブシステムに任している。けれどサブシステムは、オモイカネの領域内のモノだから、矢張りオモイカネが凡てを管理していると云っても過言ではないのかもしれない。ただオモイカネが停止しても、扉などが独立して稼働できるのはサブシステムがあるおかげだ。

 サブシステムがラピスを認識し、白いドアが横にスライドすると、時間が食事時からずれていたので、食堂内にいる人は少なかった。席には生活班の黄色の制服を着た女性が二人座ってケーキを食べていた。カウンターの奥ではホウメイらが夕餉の下拵えをしている。
 珍しいものを見つけた。ユリカがカウンターの上に横向きに頭を乗せて、静かにしていたのだ。ユリカの前に立つアキトは、そんなユリカの対処に眉を顰めて困っているようだ。けれども手は止まらずにジャガ芋の皮を剥いており、本業をきちんとこなしていた。

「ホウメイ、オムライスお願い」

 ラピスはカウンターの、ユリカから一席離れた位置に座ってそう云った。髪が長い為に、カウンターの上に乗っかってしまったから、髪を手櫛で纏めてぱらりと広げた。しゃらんと後ろ髪が靡いた。
 ホウメイは軽快な声と笑顔で応えると、自分がやっていたスープをサユリに任せ、フライパンを手に取って作り始めた。
 ミカコは笑顔でラピスの前にお冷やを置いて、下拵えをする為にまたカウンターの奥へ戻った。

 ラピスはお冷やを一口飲んだ。それからユリカを観た。
 ユリカは、あぅーやらはぅーやらと呻いており、アキトの前に居るのに、普段と比べて数段も静かである。
 ラピスは、ユリカの前のアキトへ視軸を移した。
 アキトは苦笑いを浮かべて肩を竦めた。

「来てからずっとこうなんだ。静かなのは善いんだけどね。厭だったんだけど、チーフに相手を任されたんだ。けれど声をかけてもこの調子なんだよ」

「――心配?」

 ラピスは小首をこてんと傾げた。

「ふぇッ!? し、心配なんかするもんか。ただユリカが、らしくないからどうしたんだかが気になるだけだよ」

 あははと乾いた笑みをアキトは漏らした。
 ふうんとラピスは鼻を鳴らした。アキトは突然の対応ができないらしい。

「まあ良いけど。私も静かなユリカは気になるし、元気な方が好いと思うよ」

 ――静かな理由は推測できるんだけどね。



 きっとユリカは、ナデシコクルーが傭兵となることを悩んでいるのだろう。ユリカにとって火星での敗北は手痛かった筈だ。
 火星までの戦果によって生じた慢心が、ナデシコを壊し、火星の生き残りを置いて行くことになり、伏戸をスケープゴートにすることになった。
 ナデシコは軍ではない。敵は人ではなく、正体不明の無人兵器だ。しかし傭兵となれば、軍属と変わらぬ危険を乗組員に合わすことになる。そして責任は、凡てが艦長のものである。



 ねぇアキト、とラピスは云った。

「一発でユリカが元気になる方法があるよ」

「そんなのがあるのか? けれど静かなのは、静かなので良いこともあるんだけどね」

「好きだよ、とアキトが耳元で囁けば、きっとユリカは醒める」

 アキトはラピスの言葉で可笑しくもないのに噴飯した。

「その後、前後不覚に陥るかもしれないけど。試してみたら?」

「年上をからかっちゃいけないよ」

 ホウメイは苦笑混じりにそう云った。そしてラピスの前にオムライスが乗った皿を置いた。半熟卵と特性ソースがラピスの食欲をそそる。
 判った、とラピスは応えた。

 アキトは、ラピスが今までの会話をなかったかのように静かに食事を始めたので眉を寄せたが、再びジャガ芋の皮剥きを始めた。



 ラピスはオムライスをはむはむと味わっていた。オムライスはチキンライスとソースの絡みが調和して大変美味しい。ジャンクフードで食事を済ませてしまうルリを勿体ないとラピスは思った。ユリカをちらりと観た。まだへこたれている。

 ――試してみるかな。

 ラピスは口の中の物をこくんと飲み込んだら、オムライスを崩しているスプーンを止めて、瑠璃の模倣を行うことにした。

 ラピスは随分前に瑠璃の技術を習得できるだろうかと思った。あの技術は、桜色の少女がヴェリスセス研究施設で造られた過程で、脳髄に転送された情報には全く記されていなかった。現存技術とは別系統のアプローチで構成されているモノである。そういう未知のモノを観測することはラピスの探求心を酷くくすぐった。ラピスにとって観測とは、存在理由であり唯一の趣味なのだ。

 ラピスは瑠璃の術式を近くで見続けていた。完全な模倣はできないだろうが、何処まで可能か。しかし技術とは、模倣と改竄を繰り返して研鑽して行くものなのだ。完璧な複写でなければならぬことはない。そして実験を重ねて結果を求めるのは、物理世界において基本的な観測だ。それはいかなる状況でどのような結果が出るのかを観測し続ける。

 瑠璃の世界に作用する施術は難易度が高すぎて脳髄が焼き切れてしまうだろうが、瑠璃の会話をする手段ならば模倣できるだろう。ラピスが瑠璃の言葉が解るのは、瑠璃が発している言葉の情報の解読鍵はラピスの脳髄に刻まれているからである。言葉を情報として送る施術。ラピスには空間を渡って情報を送ることはできないだろうが、一次的に直接触れて繋げば、相手の脳髄に送れるだろう。

 ラピスはヴェリスセス研究施設で多くの情報を刻まれた。そして人間は生きているのには、数え切れない程の化学反応を躰中で行っている。それらの今までに解明された情報がラピスに刻まれているのだ。今必要なのは人が声を発したときの音域と音量。人が音を聞いたときの鼓膜の振動によって発生する電気信号。領域の在り方。普遍的に記録された情報の集合。

 ラピスは脳髄で処理し。
 ――施術を起動する。

 自分の心臓の鼓動が聞こえた。ラピスの心臓は動いている。
 こんな音を聞いたのは生まれて初めてだった。初めて人に行使するから緊張しているのだろうか。たぶんそれは――
 一度も途切れず、ずっと聞こえ続けていたものだろうに。どきん。どきん。どきん。

 ラピスは瞼をぎゅうと締める。
 背中が湿って気持ち悪い。
 背筋がぴきりと強張る。
 額に冷たい汗を流す。
 手が小さく震える。
 小震えを止める。

 食堂では、ホウメイやサユリらは下拵えをしている。
 生活班の黄色の制服の二人は談笑。
 アキトはジャガ芋の皮剥き。
 ユリカは不貞寝。

 外的世界と内的世界を切り離す。
 外界と脳髄を切り離す。
 外と心を切り離す。

 周囲とラピスの位相にずれが生じる。
 食堂にはラピスだけかしかいない。
 ラピスの感覚は消えていく。

 記録領域より情報を検索。
 アキトの音声を検出。領域の解析。
 人間の鼓膜の振動によって生じる電気信号の解析。
 施術構築。失敗。
 脳髄内での電気信号の発生と流動を解析。
 構築を脳髄の仮想領域で実行。圧縮。
 施術構築。完了。

 心と外を接続。
 脳髄と外界を接続。
 内的世界と外的世界を接続。

 ラピスの感覚の復帰。
 食堂でラピス以外を感知。
 周囲とラピスの位相のずれを修正。

 ラピスは瞼をゆっくりと開いた。何処か上の方にいた自分がすうと降下して来て、いつの間にか身体と重なった。
 額と背中だけでなく、全身に玉のような汗を掻いて、下着もぐっしょりと濡れて気持ち悪い。鼻の頭の上が熱くなって、涙が急に溢れて来ていた。止めどなく流れている。喘ぎ声が漏れそうになるのを自制する。深呼吸をして、動悸を整えた。

 食堂に居る者たちは、下拵えをしていたりへこたれていたり談笑していたりと、ラピスの変調には気付かなかった。けれども気付かなかったのは、ラピスがなるべく押さえていたからだ。人は物事に集中していたら、周囲の変化には割りと気付かないものである。ラピスが音を立てないのなら、ふと視界に入れなければ、其方に注意が逸れることはない。

 ラピスは今までに施術を起動せずに組み立てたことは幾度もある。その度に組み立てただけで躰に変調をきたした。それは瑠璃とは違って肉体という枷があり、術式がラピスに合わぬ為に引き起こる事象である。
 施術の機構は瑠璃が自に最も適すように研鑽し続けて来たモノだ。ラピスは施術を組み立てられようが、ラピスの技術として成立しなければいずれ身を滅ぼす。ラピスが組み立てた施術が術式として成立していたとしても、瑠璃のではなく、ラピスの術式として成立しなければならないのである。

 ラピスは涙を拭って、施術が自の領域に成立したのを認識した。術式は成功だ。施術としてきちんと機能するモノを作り上げた。成立したのは仮想領域で幾度も繰り返した故だろう。しかし術式は、ラピスのものではなく瑠璃のものとして成立している。完璧に限りなく近い模倣。自の躰に合わぬ技術。課題はそれを自分のものにすることだ。

 ラピスは施術を待機状態にして、まずはオムライスを食べ終えることにした。施術を起動したときの対象の行動で、ゆっくりと食事をしていられない状況になるだろうと思ったからだ。

 ラピスは食事を終え、椅子をくるりと回してユリカの方を向いた。
 ユリカはラピスと反対の方を向いており、カウンターの上に横向きに乗せた頭の後ろ髪は滝のように流れていた。

 ラピスは椅子からちょんと飛び下りた。
 アキトはラピスの食事が終わったことに気付いてジャガ芋の皮剥きを一時止め、カウンターの奥から綺麗に空となった皿を取って洗い場の方へ持って行った。

 ラピスはへこたれて椅子に座っているユリカの後ろ姿を見上げた。そして周囲の注意が自分に向けられていないのを確認した。誰の視線にも入っていない。敢えてあげるならば、オモイカネぐらいしかラピスを観ていない。だがラピスとルリにとっては、オモイカネを騙すのは容易いことだ。けれども二人ならば、オモイカネを騙す必要はなくて協力さえしてくれるだろう。この場合でラピスが注意しなければならないルリだけだ。けれどもオモイカネの記録だけでは、ルリが興味を引くような観測結果は出ないようにしてある。

 ラピスは自の領域内に成立した施術を意識した。あとはユリカに触れて接続し、鍵である起動呪によって事象は引き起こる。起動呪はラピスに最も関わりのある言葉が善い。変に形容詞をつけた文などいらない。呪文を唱える。同時にユリカに右手をぎりぎり触れるか触れないかまで近付ける。

 瑠璃が施術を行使するときに用いる起動鍵である言葉がある。瑠璃の世界であり根源でもある天河明人と天河百合香の名を含む呪文だ。それは施術を行使する最も大切な呪となっている。
 そして、人形であるか人間であるかが曖昧なラピスにも使用する呪文がある。道具としてでも人としてでも変わらぬ事柄を呪文にした。桜色の少女はラピス・ラズリという名前であること。それはラピスにとって大事なことでもあり些細なことでもある。しかしどちらにしろ、桜色の少女はシリンダという匣で観測されていただけであったが、ラピスとなって世界に観測され始めた。だからこの言葉は、桜色の少女に意味を与え力を与える。施術を起動する鍵。桜色の少女を示す呪。

 ――私はラピス・ラズリだ。

 術式を解凍する。施術を起動する。胸中で呟いた呪文を契機として、情報がラピスの脳髄から『世界』に刻まれる。作られたアキトの声音で作られた思いの言葉である情報が、触れているラピスの指から世界に生きているユリカに伝達する。
 施術は現代技術とは異なった系統の技術だ。世には思考を機械に認識させるナノマシン技術がある。しかしラピスが模倣した瑠璃の技術は、機械などの媒介を必要とせずに直接世界に作用するモノである。

『大好きだ、ユリカ』

 ユリカは作られたアキトの声を聞いた。へこたれていた姿勢から、背筋をくんと伸ばして辺りをきょろきょろと見回した。蒼い髪がぶんぶんと踊る。いつもある、聞こえたかなという曖昧な恋の囁きではなく、くっきりはっきりとアキトの声が聞こえたのだ。皿を片付けに行くアキトの後ろ姿を見つけて思考が急速に巡る。

 ラピスは小首を傾げてユリカの後ろ姿を見上げていた。ユリカが何を考えているかは解らない。言葉を送信するだけでは内緒話にも使えないが、別系統の技術を使えたということが最も重要な点だ。

 ユリカはぽんと立ち上がって両手を胸の前で組み、髪を少し揺らした。

「判ったわアキト。アキトがいるんだから大丈夫よね。アキトは私の王子様なんだから!」

 ラピスはころんと転んで、それからきゃあ、と云った。
 ユリカはそう云うと、出入り口から颯爽と駆けて食堂を出て行った。
 アキトは振り返って声を上げたユリカを見て、皿を置いてからカウンターより身を乗り出してユリカが出ていった出入り口を覗いた。

「どうしたんだ? ユリカの奴」

 アキトは首を傾げた。それからラピスが、床にぺたんとに座っていることに気付いた。ラピスは自の桜色の髪にさらさらと包まれている。

「大丈夫? ラピスちゃん」

「あ、うん。ちょっと驚いただけ」

 ラピスはそう云うと立ち上がり、空色のワンピースを軽く叩いて埃を落とす仕草をした。そして出入り口へ歩き出す。
 ホウメイ、ごちそうさま、とラピスは振り返って下拵えをしている彼女に云った。ホウメイは柔和な微笑みで返事をした。



 ラピスは食堂を出ると廊下の壁に寄り掛かった。ひんやりと冷たい金属が気持ち好い。手を目線に翳し、掌をじっとみつめた。

「私にも、使える」

 ラピスの声が、廊下にぽつりと響いた。























 ナデシコが傭兵として戦地に派遣されるようになってから二週間が経った。クルーたちには兵職に就くことに対して僅かなりともわだかまりはあったが、誰も降りることはなく、それは任務をこなす度に減っていった。減っていった理由は、やることは人の命を奪うのではなく、敵は地球外知的生命体が繰り出す無人兵器であったことが人道を痛めなかったからだろう。

 ナデシコは現在のチューリップを一つならば容易く壊せる力を持っており、これまでに極東方面の3箇所の戦地を巡り、地球にある2637つのチューリップ内の4つを破壊した。コック兼任のパイロットを含めた4機のエステバリスが敵戦艦を壊しナデシコを護り、主砲であるグラビティ・ブラストでチューリップを破壊した。
 そして。
 軍との関係は、ユリカの父である御統氏からの依頼を請ける形になっているが、良好とはいえない。ネルガルと軍の摩擦を減らす為にナデシコの提督としてムネタケが派遣される案もネルガル上層部では出ていたが、山田ジロウ殺害は自白をした者がいて軍法によって裁かれたけれども、ムネタケの乗組員を排する発言が記録されていた故に、中止となった。

「今日から我が艦に派遣された、ナデシコ医療班並びに科学班のセリシス・アルシェシカ・ラズリ博士です。イネス博士の下に就くことになります」

 プロスは左腕を開いて掌を天井に向けてそう云った。左隣には女性が立っている。蒼みがかった銀色の髪。髪はポニーテールに束ねている。くりくりとした蒼い瞳。小さめの四角い青縁眼鏡。白衣を着ている。何処と無く、星野ルリに似ていた。

「セリシス・アルシェシカ・ラズリです……。よろしくね……、ナデシコの皆さん」

 セリシスはおっとりとしたしゃべり方で、舌足らずである。

 ブリーフィングルームでもあるブリッジに人が集まっていた。セリシスとプロスの前にはラピス、アキト、ユリカ、ジュン、ゴート、ミナト、ルリ、メグミ、イネス、リョーコ、ヒカル、イズミ、瓜畑がいた。

「研究をしていたけれど、乗ってみました……。蜥蜴とか、戦艦とか、面白そうだったし、ね……。IFSを弄ったり、怪我を直したり、するのが得意だわ……。だいたい、医療室や展望室にいるから」

 ラピスは普段のセリシスの喋り方を好きではなかった。説明などをされると、抜けている言葉が多いのだ。舌足らずなのもあまり好きではない。

「貴女……、ひょっとして……、星野さん」

 セリシスはルリへ視軸を移した。
 皆の視線がセリシスからルリへ集まった。

「そうです。対面は初めてですね。初めまして、セリシスさん」

 ルリルリの知り合い、とミナトは尋ねた。
 はいとルリは答えた。

「彼女はヴェリスセス研究施設の人です。暇な時に、ネット上で知り合いました」

「あらまあ……、ラピスさんの他にも、本当に子供が乗っているのね」

 セリシスは眼を細めてプロスを見た。
 ルリさんは貴重な人材でしてとプロスは短く応えた。
 乗る前から知っていただろう、とラピスは溜息を吐いた。セリシスと瑠璃は、同位ではないけれど同義である。アキトやユリカ、ルリについてはラピスよりも知っているはずである。

「それと……、ラピスちゃんは、私の妹だから……、姉妹揃って、よろしくね」

 義理だけどね、とラピスは思った。
 瑠璃がナデシコに戻って来ていない状況で、瑠璃の代行者であり下位存在であるセリシスが直接乗り込んで来た。瑠璃自身が戻れない状況であるようだから、セリシスをラピスに近付けて、『幸詩』の効率をなるべく下げないようにしているのかもしれない。どんな理由があれ、これで、瑠璃であって瑠璃ではない存在が三人ナデシコに乗ったことがある事態になった。
 さて、どうなるかな。







第四章 施術起動 終幕





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