桜の木の下

第一章 桜色の少女








 雨の薫りがする。

 ラピスは静かに空を仰ぎ見た。暗い雲が隙間なく蒼い空に蓋をしている。土と水が混ざった匂い。アスファルトが水に打たれた匂い。森の草と木の匂い。其れらが混濁した雨の匂いが薫る。まだ雨は降っていないけれど、後少し時間が経てば空から滴が落ちて来るだろう。

 ラピスは此の薫りを気に入っている。雨が降る前に薫る此の匂いは、何かが始まる予兆を醸し出している気がする。そして、(たし)かに雨の匂いは桜色の少女がラピスを始めた証の一つである。



 ラピスは大きすぎるランドセルを背負って家に帰っている最中である。今、雨に降られたらお気に入りの空色のワンピースが濡れてしまうから、少し歩調を速めた。

 ランドセルは好きではない。否、背負う鞄はどれも嫌いである。足許まで届く桜色の髪が鞄に引っ掛かってしまうからだ。けれど鞄は提げるよりも背負う方が楽だから、仕方なくランドセルを背負うのを我慢している。

 学校に通ってはいるが、知識は教育機関で学習する内容は既に脳髄に記録しているので意味がない。しかし同居人の薦めにより行く事になった。通うことは意味がないと判断していたが、最近感情が若干豊かになったかなとラピスは思っている。しかし自分が思っている程変化していない事も把握している。



 家に着いた。一人で住むのには広すぎる一戸建て。一人、否、一応二人で住んでいる。

「ただいま」

 ラピスは靴を脱ぎ(なが)ら云った。居間に向かう。居間では幾多のモニタに数字の羅列を並べた図式、線や円などで描かれた方陣が映されていた。其の中央には蒼みがかった銀色のツインテールの中学生ぐらいの少女が浮いている。文字通り足を床に付けずに浮き、ツインテールはゆらゆらと揺れていた。少女が振り返った。

「お帰りなさい、ラピス」

「ただいま、瑠璃姉さん。また何かしてるの」

「ええ、術式の簡易化を、ね」

 ラピスはふうんと鼻を鳴らした。其れから手を洗いに洗面所に向かった。



 廊下を歩いていると丁度雨が降って来た。ラピスは窓を観た。窓の奥でぽつりと降り始める。雨の匂い。此の匂いを初めて味わったのはラピス・ラズリが始まった日――。























 人一人が容易く入ってしまう大きさのシリンダーが、灯が消えた室内に多数並べられていた。仄かな火を発する常備灯はあるが、室内を照らし出すのには足らない。其の光はシリンダーをより大きな影として陰影を表させているだけであった。シリンダーの中には灯が弱くて影でしか形を示せていないが、初等教育機関に参加する少年少女よりも幼い子供たちが浮いていた。

 桜色がかった銀の髪の幼い少女が裸体で数あるシリンダーの一つの液体の中に漂っていた。腰まで届く長い髪。長い睫に縁取られた瞳。小さな鼻。薄桜色の口唇。少し力を加えれば折れてしまいそうな細腕。肌膚は雪の如し白さで西洋の白磁器人形(ビスクドール)の様だ。桜色の長い髪が液体の中でゆらゆらと揺れていた。

 此の幼い少女に名はない。否、此の部屋にいる幼子は皆名がないのである。あるのは認識番号のみで個性はない。どれもが人形でどれもが道具である。



 ふいに桜色の少女の瞳が悠寛(ゆっくり)と開いた。硝子玉の様な金色の瞳。瞳を薄く開いたまま少女はぼうとしていた。ゆらゆらと髪が裸体の周りを踊っていた。

 少女はシリンダーの中から出されたことはなかった。故に数数の障害を患っていた。
 人は周りの環境から知識や人格、五感などを形成して行く。例えば、音痴は音感を形成する時期に調子の外れた電子音を聞かせて育てるとなる。レンジが広い自然音がまるで耳に入らない環境で育つから決まった周波数しか確認出来ないのである。後天的な味覚異常や嗅覚異常も此の様に環境によって疾患に(かか)るのだ。環境は人を造る。
 しかし。
 少女は未だに産まれていなかった。世界は羊水であるシリンダーの中が(すべ)てなのだ。けれど身体的に未成熟だが知能は高い様に造られていた。

 IFS処理によって補助脳をナノマシンで形成するのではなく、少女は脳髄の七割を機械化されている。

 少女は思う。人は未だに脳髄の凡てを理解し切れていない。故に、加工し扱い易い機械と云う人の歴史を持って脳髄を理解したと勘違いしているのだ。

 ――滑稽だ。

 人の構造を理解して医療に役立てる目的で始まった遺伝子研究は、優れた人を造ると云う手段を何時の間にか目的にしてしまったのだ。
 手段が目的となってしまう事は酷く悪い。其の様では歴史が前に進めないではないか。広い分野に枝分かれして全体的には僅かに前に進めるが、究極の一には何時までも届かない。迂曲し乍ら無駄を積み重ねるのは人の歴史だが、学術の徒ならば目的を達成しなければならない。手段が目的に成ってしまうのはよくある事だが、あってはならない事だ。

 少女は機械化された脳髄を用いられてワークステーションへ接続され、莫大な量の情報を蓄積された。人格は赤子から成長する過程の環境によって形成される。故に少女にとって環境とは(はこ)であるシリンダーと流れ込んで来る情報だけだ。たった其れだけで少女の人格は形成されたのである。



 ぴり、と少女の背筋を痺れが走った。小首を傾げて匣の中をゆるりと回った。視界はぼやけてゆらゆらと揺れていた。常備灯の明かりが縦に横に伸ばされて一定でない。

 ――何だろう。

 故障だろうか。先程の痺れは自分か匣が壊れたのかと少女は思った。

 ――ん?

 声が聞こえた。否、声じゃない。情報か。空気の振動なんて感じた事はない。少女にとって情報が凡てだ。しかし言葉として認識したのならば其れは声となるのかもしれない。

『お〜い』

 抑揚のない声が聞こえた。

『やっほ〜。起きていますか。聞こえますか』

 女性の声が聞こえた。此の声の質は情報で女性の領域のものだと記録されている。

 少女は眉を顰めた。今までにこんな意味のない問い掛けを受けた事がなかったのだ。其れに情報受信は毎日既定の時間に行われるのに、今は時間とずれていた。

『起きていますね。私の事を認識出来ていますか』

 其の言葉と共に揺れる視界の奥に何かが見えた。液体の中から揺れて見える匣の外に、一人の蒼い少女が立っていた。少女はこてん、と小首を傾げた。匣の外の光景が瞭然(はっきり)と見えた事が初めてだったのだ。定期的に転送される情報では揺れない整った画像が送られるが、実際に匣の中から観る景色はどれも液体によって屈折して歪む筈なのに、蒼い少女の姿は網膜にきちんと写って見えた。

『初めまして、星野瑠璃です』

 瑠璃は腰を曲げた。ツインテールがさらりと揺れる。蒼みがかった銀色の髪。

 侵入者か。否、侵入者はありえない。此処の研究施設は社会に非公開で『彼方側』に唯一繋がっているのは現ネルガルと離反した施設だけである。1980年に成立し隠蔽し秘匿し、独立した世界に侵入者など通常の可能性ではありえない。目的が手段に成り下がったが、一つを求める此の集団(せかい)の在り方を少女は肯定している。

 其れに此の施設は外界と物理的な繋がりが過去15年間ない。あるのは電子間の情報の伝達のみだ。――情報、情報か。閉鎖的な『此方側』と唯一繋がる『彼方側』の手段。何かしらのウィルスが流れ込んで来たのだろう。其れとも『此方側』だけで発生したバグか。まあ此で。

 ――私というプログラムは壊されるのかな。

 消滅する事は別に如何でも良い。過程の一つとして生産され潰れて行く此の世界のプログラムである少女だ。感情の揺れはない。

『ちょっ、ちょっと待って下さい。私はウィルスでもバグでもありません。敢えて云うなら、そう――幽霊です。――否、違います幽霊も間違いです。と云うより』

 幽霊とは云わないで下さいね、と瑠璃は少女にきれいなえがおで云った。

 少女には瑠璃が何をしたいのか全く解らなかった。突如(いきなり)現れて自分の言葉で自爆した蒼い少女。訳が解らない。故に少女は眉を顰めて本題を尋いた。

 ――何がしたいの。

 僅かな間。瑠璃は眼を見開いてから細め、口許を歪めて艶やかに(わら)った。

『貴女を攫いに来ました』























 ラピスは困っていた。手を洗ってから瑠璃の作業を眺めていたり一人分の夕餉の下拵えをしていた処、突然の来訪を一人で処理する事になったのだ。今日は食料素材の配達がある日ではないし、知人の来訪予定もなかった。第一ラピスを尋ねて来る暇な人はいない筈なのだ。同居人に関しては謎が多いが、瑠璃を尋ねて来た人は今までに一人もいなかった。しかも今回来訪したのは中年の人たちだ。ちょび髭に赤チョッキと四角い貌にスーツの知り合いなんていない。ラピスは、プロスペクターとゴート・ホーリーとは初見だ。

「ナデシコ?」

「はい。ラピスさんの高速演算や電子制御、構成構築に関する資料をご通学なさっている学校の情報書庫から覧させて戴きました。稀に見る逸材です。今度我が社で開発した戦艦ナデシコのサブオペレーターとして契約をしませんか」

 良いよ、とラピスは答えた。

「え、――そんなあっさりと良いんですか」

「うん。其れと、私が誘われたのは――マシンチャイルドが理由。其れともヴェリスセス研究施設からの推薦。ネルガル独自で見つけたの?」

 プロスはほぅ、と嘆息した。

「自分に関する情報を其処まで把握していましたか。いやはや、頼もしいかぎりですな。ちなみに貴女を推薦したのはヴェリスセス研究施設のセリシス博士です」

 ラピスは視線をプロスから外して周囲に少し彷徨わせた。そしてこくりと小さく頷いた。

 ヴェリスセス研究施設はラピスが造られた施設で、セリシスとは瑠璃の偽名だ。偽名というよりも都合の良い架空存在である。しかも隠蔽し続けてきた研究施設は瑠璃の所為で一部を公開するはめになってしまっていた。其れにしても今度の件は、ラピスは瑠璃に巻き込まれたらしい。

「ネルガルは小学生を戦艦に乗せても大丈夫なの?」

 ラピスは自分の正確な年齢を知らないが7、8歳ぐらいだと思っている。戦時中とはいえ、社会の世論で何かと叩かれそうな状況は正直好ましくない。

「はい。問題ないです。滞りなく進められますよ、ラピスさん」

 なら良いやとラピスは答えた。そしてプロスに差し出された書類に眼を通していった。訂正箇所に線を引いてプロスに返す。

「如何して此の箇所に」

「制服は嫌いだから」

「けれど社則でしてサイズは特注のを用意しますが」

「や」

 ラピスは一言の下に切り捨てた。

 プロスはこほんと咳払いした。

「――まあ良いでしょう。ではまた後日お伺いしますね」

 そう云うとプロスは荷物を纏め、ゴートを伴って去って行った。ゴートは始めから終わりまで喋らなかったが、一体何しに来たのだろう。いるだけで意味があったのか。例えば威圧感とか。



「何故、乗ってくれるのですか」

 空間が蒼く滲んで、今まで姿を現さなかった瑠璃が小首を傾げて浮いていた。

「別に、理由はないよ。学校に行こうが戦艦に乗ろうが変わらない。私が瑠璃姉さんに攫われるのを容認した時の事覚えてる?」

「――道具は拒否しない。無理をすれば壊れるだけ、でしたか」

 ラピスはこくりと首頷いた。桜色の長髪がさらりと揺れてラピスを包んだ。

「何処にいようが関係ないの。死んでも生きても如何でも良い。そういう風に造られたのだから。周囲の思惑に流されて壊れてしまっても、ね。其れにしても如何してナデシコに乗ることにしたの」

「受信した『幸詩』で百合花さんがナデシコについて話していたんです。調べてみたら此の時代の物だったので、其処に行ったら繋がりが良くなるのかと思いましたから」

 其れは瑠璃姉さんにとって一大事だね、とラピスは云って微笑みを浮かべた。



 ラピスの義姉、瑠璃は人ではない。触ろうとすればすり抜けるし、何も食べずに生きられる。生きられるとは語弊があるかもしれない。在り続けるが正しいだろう。

 人のカテゴリーから外れた、情報として在る存在。ラピスは瑠璃の年齢を知らない。瑠璃も自分の真実(ほんとう)の年齢を知らない。瑠璃が記録しているのは時間的には過去二十年間のみである。其れ以前の記録は存在しない。しかも二十年間の記録も何となくでしか覚えていないのだ。現実世界に器がないが故に不安定なのである。物に、例えば紙や電子情報として記録しても其れを自分が行ったかを信じられない。忘れた行動は瑠璃ではない瑠璃が、他者が行った記録だ。しかし二十年前から存在しているのは確かである。五十年前か百年前か、はたまた千年前かもしれない。けれど瑠璃が覚えているのは二十年間のみである。

 瑠璃は毎日死んで、毎日生まれる。

 去年と今年という区切り、
 昨日と今日という区切り、
 過去(まえ)現在(いま)という区切り、

 凡てに平等な時の流れは瑠璃を殺してまた生ます。
 だが。
 決して摩耗しない記録もある。ラピスが瑠璃から聞いた星野瑠璃の根源にして起源。揺るぎない世界。



 天河明人。
 天河百合花。



 共に暮らした日日。眼下に広がる桜の海。天河ラーメン。幸せ。畳の匂い。

 忘れぬ想い。思慕。チャルメラ。愛。忙しい日日。愛された家族。



「じゃあ私は引っ越しの準備をするから」

「――ありがとう、ラピス」

「今更だね。其れに私は、瑠璃姉さんとの暮らしは楽しんでいると思うし。戦艦に乗る事も面倒じゃないよ」

 ラピスは微笑みを浮かべて居間を後にした。此の家に心残りはない。学校へ行ったり料理を作ったりした此の平凡な世界はあの日から始まったラピスの二番目の世界だが、思い出は全くない――。記録はあるが、思い出は全くない。























 空気が冷たい。ラピスはヴェリスセス研究施設から瑠璃に攫われて三ヶ月後に(ようや)く肉体的に安定した。

 ラピスは瑠璃に匣から出された途端に死にそうになったのだ。
 赤ん坊が無意識に行う呼吸と産声を意図的にしなければならず、肺に満たされていた液体を機械などを使って吐き出され、言葉とは思えぬ嗚咽を繰り返し、声が出るのを確認した。しかし声が出るのと喋れるのは違う。情報として肉体の稼働方を知ってはいたが、情報だけではいけない。体験を伴わないと人間は行動できないのである。

 ラピスは如何やって現在(いま)いる場所に来たかを知らない。躰は動かないは意味不明な音の羅列は聞こえるは、知らぬ匂いがするはで何もかも今までと比べて異常だった。匣から出された世界は匣の中にいた時よりも閉じられていた。情報を処理すれば良いだけだったのに、生きるだけで様様な枷に縛られていたのである。

 ラピスは瑠璃に躰中に電気を流されて筋肉を動かされ、音を聞かされて匂いを嗅がされ、肉や野菜を食わされて(なか)ば強制的に匣の外で暮らせる躰を造らされた。
 匣の中で暮らしていた動物を匣の外で暮らせる様には矯正が必要なのはラピスにも解る。しかし変に癖がつかないように適応させて貰えた事は良かったのか判らなかった。此れで匣の中には戻れない。小さな世界には戻れない。

「気分は、如何ですか」

 瑠璃が草むらに寝転げているラピスに尋いた。胸元が小さく上下していた。

「大分慣れてきた。其れにしても匣の外って面倒だね。生きるだけでやらなければならない事がたくさんある。此れなら情報だけを取り扱っていた方が作業効率が良かった」

 ラピスの視界を薄い雲が覆っている。匂いがする。此の匂いは何だろう。此れは――。

「そういう世界なんです。情報だけで何も彼もが解る筈がないんです。躰が動く範囲でしか人間は生きることができないんですよ。匣の中に居乍らにして宇宙の果てを観たり、行きもしない国の様子を視たり、会ってもいない他人の声を聞いたりするのは――全部幻想です。匣の中に座っているのはただの動物で、動物は自分の大きさに見合った世界で生きている。手が伸びる範囲――脚の届く範囲にしか動くことはできないんです」

 そうかな、とラピスは云った。

「そうかもしれないね。出来る事は出来る、出来ない事は出来ない。出来ない事を出来ると思うのは間違いだからね。人は世界に現れ世界から去る。いろんな枷に縛られていてもやることをやって生きているみたい。匣の中にいた私は観測者であったけど、匣の外に出された私は観測される位置になったのかもしれない」

 難しい事を云ってますねと瑠璃は寝転げているラピスの貌を繁繁(しげしげ)と観た。それからラピスの隣に腰を降ろした。

「そうかな」

「そうですよ」

「そうかな」

「そうですよ」

「そうかな」

「そうですよ」

「――そうかもしれないね。私はそう造られたんだと思う。匣の中にいた私は多くの情報を蓄積されていたから其れが影響しているんじゃないかな。別に如何でも良いんだけどね。其れにしても」

 此の匂いは何、とラピスは尋いた。

「匂い?」

「土と水が混ざった匂い。アスファルトが水に打たれた匂い。森の草と木の匂い。其れらが混濁した様な匂いが薫る。厭な匂いじゃないけれど、解らない匂い」

「其れは雨の降る予兆ではないでしょうか。限定空間を解析しないと断言出来ませんが、雨が降ると配信された情報が端末に書いてありました」

「雨に匂いがあるの?」

「人の嗅覚は快い匂いと不快な匂いぐらいしか領域を分けていませんが、光景を観て視覚で嗅ぐ匂いもあります。他にも様様作用して匂いがあるんです。雨はただ滴が落ちてくるだけではなく、概念に人は価値を付加し、匂いを見出だせるんです」

「じゃあ此の匂いは」

 私が生み出した匂いか、とラピスは静かに呟いた。

「ラピスは生きているという事ですよ。匣の中では生涯生み出せなかったラピスだけの匂いです」

「そっか。私は稼働しているんじゃなく生きているのか。生きている――面倒臭いな」

 瑠璃は微笑みを浮かべた。

「何時か楽しいと思える日が来ますよ」

「そうかな」

「そうですよ」

「そうかな」

「そうですよ」

「そうかな」

「そうですよ」

「――そうかもしれないね」























 新しい匂いがする。どんな匂いか表現出来ないが、新品の香りだ。
 ナデシコ出港一週間前、ラピスはブリッジまでの綺麗な造りの金属製の廊下をプロスと共に歩いている。ラピスは案内をしてくれているプロスが、歩幅が狭い自分に合わせてくれているので遅れる事なくついて行けていた。

 瑠璃は出港前には乗り込むと云っていたが、何時来るか判らない。ラピスには彼女が今何をしているのか見当もつかない。長い間共に暮らしていたのだが、未だに多くの謎を秘めている。

 プロスは足を止めた。眼の前に大きな扉があった。すうと開く。

「ここですよ、ラピスさん。此れから貴女に手伝って戴く職場です。そして貴女の直属の上司が彼女です」

 プロスは中央に座っている少女に向かった。
 座っているのは――。
 ――えっ?
 そんな莫迦(ばか)な。

「星野ルリさんです。彼女は貴女と同じマシンチャイルドであり、ナデシコのメインオペレーターです」

 瑠璃は不思議なものを観た表情でラピスを見た。それから頭を下げた。

「星野ルリです。よろしくお願いします。ラピス・ラズリ」

 ラピスは自分より頭一.五個分背の高いルリを凝乎(じっ)と見上げた。
 ルリはラピスの視線に眉を顰めた。

「如何しました」

「――瑠璃姉さん?」

 小首を傾げたラピスにルリは貌をしかめた。

「姉さん?」

 ルリはラピスの言葉を反復した。お知り合いでしたかとプロスが尋いた。

 ラピスはルリに近付いた。



 ぷにっ。



「――痛い、です」

 ラピスはルリの頬を小さな手で引っ張った。触れた事に対して驚いて眼を見開いた。

「触れる」

「当たり前です。其れより早く手を離して下さい」

 うんとラピスは答えた。次にルリの胸に手を当てた。

「やっぱり、ない」

「私、少女ですから」

 ラピスは申し訳なさそうな表情になった。

「多分、大きくなっても胸だけは変わらないと思うよ」

「――だから何なんですか」

 ラピスはルリのきれいなえがおを受け流した。似てたからと答えた。

「似てた?」

「うん。私の知り合いに凄く似てる。名前も同じ。けれどルリより瑠璃姉さんの方が腹黒いと思う。同じなんだけど全然違う」

「其れはそうでしょう。幾ら貌や性格が似ていても私と其の似ている方を重ねてしまっても、貴女が別人だと知ってるのならば其れは他人となるのです」

 ラピスはくりくりとした瞳を丸く見開いた。

「如何しました」

「小難しい事を云う処も同じ。だけどルリの方が優しいね。――でも胸は大きくならないと思うよ」

「そうですか」

 ラピスは此のルリも強いと思った。的確に受け答えするルリは瑠璃とは違う強さを感じられた。

 す、とラピスは小さな手を差し出した。意図に気付いたルリは其の小さな手を握った。

「よろしく、ルリ」

「ええ、よろしくお願いしますね。ラピス」























 ズンドンガンと腹の底に響く音が何度も鳴り続けている。戦争相手、無人兵器が佐世保シティに停泊しているナデシコに向けて攻撃しているのだ。まだ幕が上がっていないナデシコを何故相手側が攻撃するのかラピスには判らなかった。ただの観光船かもしれないじゃないか。

「敵の攻撃は我々の頭上に集中している」

「目的はナデシコか」

「そうと判れば反撃よ」

「如何やって」

「ナデシコの対空砲火で上に向けて敵を下から焼き払うのよ」

「上にいる軍人さんとか吹っ飛ばすわけ?」

「どうせ全滅してるわ」

「其れって非人道的って云いません?」

「貴女たち煩瑣(うるさ)いわよ」

 ごちゃごちゃと年長者たちが騒いでいる。ラピスは眉を顰めた。隣に立つおかっぱ頭の男性が一番煩瑣い。何故自分が此処にいるのか解らなくなる。

「貴女たちは素人なんだから黙っていなさい」

「貴方が一番煩瑣い」

 ラピスは下から片眉を吊り上げてムネタケを睨んだ。
 戦争を知らぬ日本の民間人に口細かに云われ、子供にまで否定されて癇に障ったのか、ムネタケが手を振り上げた。隣にいたというのが悪かったのだろう。

「子供は余計黙っていなさい」



 パンッ。



 平手で叩かれた。血の味がする。倒された拍子に口の中が切れた様だった。ラピスは手の甲で口を拭った。人間の味がする。人間の匂いがする。

「貴方! 何してるの!」

 ミナトが一番先に駆け寄り、ムネタケを睨んだ。ユリカやメグミたちも駆け寄った。

 ラピスは叩かれてぐらぐら揺れる脳髄で考えていた。大人と子供の差とは何だ。ルリはよく少女ですからと口にするが、保有知識は此処に集まっている人たちの中で一番多いんじゃないのか。
 大人と子供の境界を如何分けると云うのか。年齢か能力か、ならば何故子供を戦艦に乗せた。大人とか子供とかそういう区切りは曖昧になって――、駄目だ。眠い。意識が沈む。























 ラピスは眼を覚ました。白い天井が広がっている。

「気が付きましたか」

 聞こえた方向に貌を傾けた。瑠璃がぺたんと座った姿勢で浮いていた。

「瑠璃姉さん」

「全く、驚きましたよ。ナデシコに来てみたら貴女が倒れているのですから。オモイカネの情報書庫を勝手に覗かせて戴きました。災難でしたね、ラピス」

 そんな事は如何でも良いとラピスは答えた。

「ユリカがいた。御統ユリカ。天河姓でなかったけど、瑠璃姉さんに見せて貰った『幸詩』に登場していたあの百合花に似てた」

「ユリカだけではありません。天河アキトも乗船していましたよ」

「ならば何故そんなに落ち着いているの。彼らは貴女の世界じゃないの」

 他人だからですと瑠璃は答えた。

「彼、彼女は天河明人と天河百合花とは別人です。明人さんと百合花さんとは違うのです。同じ貌同じ境遇同じ性格を保有していても、私は同じだからこそ別人だと断言します」

 ラピスは眉を顰めて瑠璃を見た。

「もし貌も違う別人ならば同じ箇所をあげて此れだけ似ていると云えますが、同じであるが故に僅かな差違を見出だす事が出来るのです。違う人ならば同じ箇所を探せば良いですが、同じ人ならば違う箇所があってはならないのです。しかし全く同じ存在とはありえません。何故ならば明人さんと百合花さんは私の心の内にいるのです。彼の世界のラピスちゃんから送られる『幸詩』を楽しむ事は出来ますが、此の世界で私の知っている二人に会う事は叶えられません」

 ラピスは天井を眺めた。やがてふうん、と鼻を鳴らした。

「同じであるが故に同一存在とは捉える事が不可能なのかな。よく解った。あの二人とは初対面という訳だね」

 その通りですと瑠璃は答えた。

「第一に私はあのアキトとユリカを別人だと知っていますから」

 瑠璃とルリは違う箇所はあるけど同じ箇所もあるんだとラピスは思った。云っている内容が同じである。

「じゃあ瑠璃姉さんはナデシコで如何するの。慥か現在(いま)はナデシコで過ごした記録はないんでしょ」

「ええ、明人さんや百合花さんが時折ナデシコを話題にした『幸詩』が流れて来る事はありますが、私自身は全く記録していません。随分と前の記録なんでしょうね。記録が摩耗されてしまったみたいです」

 瑠璃はそう言った後――自分の(てのひら)を見つめて、それから手の甲を鼻に近付けた。

「私はナデシコにいる人に私を認識させずに作業していますね。似ている人がいたらルリに迷惑が掛かるかもしれませんし、人と関わる事は余り好きではありません」

「瑠璃姉さんがそう思うならそうしたら。私は私で好きにしてるから」

「ええ、では失礼します。ラピス以外には見えませんが、私は大概展望台室にいますから」

 解ったとラピスは答えた。
 瑠璃はすうと消えた。

「ナデシコ、か。一体何が始まるんだろう」

 ラピスは静かに呟いた。







第一章 桜色の少女 終幕









アキト「本編で出番がなかった可哀想な人たちの救済コーナー、落人の宴です」

ユリカ「アキトー、暗いよぉ。ポンポン痛いの?」

アキト「違うよ、ユリカ。ただこういうのはジュンがやるべきものじゃないかと思ってね」

ユリカ「ジュン君はユリカの仕事任せてきたから此処にも来ないよ」

アキト「(哀れだな、ジュン)」

ユリカ「ところで幽霊な瑠璃ちゃんは何がしたいんだろう。誰にも会わないでナデシコにいるなんて寂しくないのかな」

アキト「何かやる事あるみたいだから時間は潰せているんだろう。俺たちは彼女の明人と百合花じゃないから余り関わられないけどさ」

ユリカ「可哀想だよね。誰もユリカを知らない世界に行ったら私は寂しくて生きて行けないよ」

アキト「まあ瑠璃ちゃんは強いからね。多分大丈夫だよ。それにしても作者はどうしてラピスちゃんを主役にしたんだろう。主役は逆行した瑠璃ちゃんか、――俺じゃないのか」

ユリカ「あ、それユリカ聞いて来たよ。何でも力がなくて弱っちい人を中心にしたいんだって。でもラピスちゃんは心が強いよね。どうしてこうなったかユリカにも解んないや」

アキト「(ただの趣味じゃないだろうな)」

ユリカ「それとラピスちゃんと瑠璃ちゃんが難しい事を言ってるんだけど、アキトには解る?」

アキト「え? 俺だって大体は理解できてるぞ。いくらか遠回しな言い方だけど意味は伝わる」

ユリカ「ほぇ〜、すごいね。ユリカは巧い敵の壊し方ぐらいしか習ってないから解んないや」

アキト「(軍の学校って人を護るためにあるけど、やっぱり物騒だよな)」

ユリカ「では次回もみんな見てねー」

アキト「見ろよー」

[2004.05.09]


[書庫] [第二章]



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